先日、観光業界を取り上げたテレビ番組で、MCの男性がゲストの旅館経営者に向かってしたり顔で言った。
「山中の旅館なのに、マグロの刺し身とか出しているじゃないですか。あれって、どうなんですか。山の中まで行って、刺し身を食べたいですか」
このセリフ、観光業界に入った頃によく耳にした。30年以上前の話である。インターネットが普及していない時代、オピニオンリーダーや評論家たちは、口々に「山の中にある旅館が、無理して刺し身を出したところでお客は喜ばない」「山中で食べる刺し身なんて、新鮮さに欠ける」などなど、もっともらしく語っていた。
当時、旅館のコンサルタント関連会社に勤務し大型観光旅館の開業プロジェクトを任されていた筆者も知ったふうな口調で「温泉場にいらっしゃるお客さまは、本当に、旅館料理に海の幸であるお造りなど求めているのでしょうか」と、その時のメンバーに言い放ったことがある。厚顔無恥。いま、思い出すだけで嫌な汗がじわりと吹き出してくる。
当時、大型観光旅館を支えていたのは、男性中心の団体客。酒を酌み交わすことが目的の団体客にとって、宴会料理はご馳走(ちそう)であり、中でも刺し身は酒のさかなとしても欠かせない一品だったのだ。
そもそもご馳走の「馳走」とは本来「走り回ること」「奔走すること」を指す。その昔、客の食事を用意するために馬に乗って走り回って食材を集めたことから、「馳走」にはもてなしの意味が含まれるようになったという。旅館料理には「たとえ、山の中であってもおいしい刺し身を食べさせてもてなしたい」という主人の思いが込められているのだ。
20年ほど前、青森県の小さな温泉宿の主人から、広島から来た宿泊客のために食材を探し回った話を聞いたことがある。
遠路はるばるやって来るお客のために、宿の主人は「何か珍しいものを食べさせたい」と、まさに方々を歩き回り「ご馳走」を用意したという。
主人が仕入れ原価を度外視して手に入れた食材はシャコ。青森では別名「ガサエビ」とも呼ばれる特産品だ。丁寧にさばいて塩ゆでしたシャコを1人2尾ずつ皿に盛り付けて饗(きょう)したところ、客に「こんなものを出しやがって! 馬鹿にしているのかッ?」と烈火のごとく怒鳴りつけられたという。
実は、シャコは瀬戸内海でも取れ、広島では塩ゆでしたシャコをざるにあけ、ムシャムシャと頬張って食べるような庶民の食べ物だったらしい。
情報も物流も二、三十年前に比べれば劇的に進化し、どこの旅館でもおいしい刺し身を提供できる時代である。冒頭の「山の中まで行って、刺し身を食べたいですか」が、もはや誤った認識であることを信じ、示したい。