平穏な時代にこそ、感染症対策の知を積み上げる ―宿泊施設が「安全・安心の拠点」であり続けるために― 北村剛史


北村氏

 新型コロナウイルス感染症が社会を覆ったあの三年間、宿泊産業が問われたのは、営業を続けられるか否かだけではありませんでした。問われていたのは、もっと根源的なことでした。すなわち、「人を迎えるとは何か」「安全を提供するとは何か」という、宿泊産業そのものの存在意義です。

 観光と宿泊は、人の移動、滞在、飲食、入浴、交流を前提とする産業です。それゆえ感染症の拡大局面において、最も深く制約を受ける一方で、地域の安全・安心を支える最後の拠点にもなり得ます。人が移動するからこそリスクが生まれます。しかし、人を受け入れる場所があるからこそ、地域は再び動き出すことができます。この両義性こそが、宿泊産業に課された宿命でした。

 私たちは当時、その宿命から目を背けることはありませんでした。感染症対策を、一時的な要請や、行政指針への受け身の対応として片づけるのではなく、宿泊施設が将来にわたり備えるべき安全品質として捉え直してきました。日々更新される知見を追い、現場で起きる迷いや不安を受け止め、膨大な情報を整理し、実践可能な行動へ落とし込む。その積み重ねが、現在の安全行動基準、実践マニュアル、感染症予防管理シート、そして教育訓練プログラムへと結実しました。

 私自身も、感染者が利用した客室の消毒について、複数のご相談を受け、実際に対応したことがあります。当時はアルファ株が広がっていた時期であり、感染力や重症化への不安が非常に大きく、客室に入る前の緊張、空間そのものに対する恐怖、作業後もしばらく消えなかった身体的なこわばりを、いまでも忘れることはできません。あのとき感じた恐怖は、単なる個人的な記憶ではありません。感染症対策が不十分であれば、ホテルの現場で働く方々が、同じ恐怖と向き合わざるを得なくなるという現実そのものです。私は、そのような思いをホテルの皆様にしてほしくありません。だからこそ、知識を整理し、手順を明確にし、訓練と記録によって、危険な場面に人を無防備に立たせない仕組みを残す必要があるのです。

 

一.「我慢」ではなく、「文化」として

 当時、私たちが目指してきたのは、ホテルや旅館に感染症対策を「一時的な我慢」として押しつけることではありませんでした。むしろその逆です。見えないリスクを見える化し、現場の所作に落とし込み、平常時にも続けられる「安全行動の基準」へと組み上げることでした。

 感染症対策は、流行期だけの特別対応ではありません。危機が去ったように見える時期にも、施設の品質として残り続けるべきものです。清掃、換気、消毒、健康管理、スタッフ教育、緊急時対応、記録、訓練。これらは、本来、宿泊施設が提供する「安全・安心」という価値の根幹にあります。

 弊社作成の実践マニュアルは、新型コロナウイルス感染症対策、ウイルスの生活環、消毒薬剤の選定、緊急時対応教育訓練、感染症予防管理シート、ニューノーマル時代のサービスクオリティに至るまでを、一つの体系として整理したものです。単なる注意書きの寄せ集めではなく、施設が迷わず動くための設計図として編み直しました。

 その背景には、ひとつの確信があります。感染症対策は、個別作業の集合ではなく、組織文化でなければならないという確信です。誰か一人の担当者だけが知っている状態では不十分です。経営者、現場責任者、清掃スタッフ、料飲スタッフ、フロントスタッフ、バックヤードで働くすべての人が、それぞれの持ち場で同じ思想を共有し、同じ目的に向かって行動できて初めて、安全は組織の力になります。

 文化となった安全は、人が代わっても、時代が変わっても、容易には失われません。私たちが目指したのは、まさにそのような、施設に根を張る安全でした。

 

二.知識こそが、変化する敵への唯一の武器です

 この体系の中心に据えたのは、ただひとつ、「知識」です。

 ウイルスは変異します。感染経路も、宿主への侵入機構も、環境中での振る舞いも、時とともに姿を変えていきます。したがって、過去に一度決めた対策を金科玉条のように守り続けることは、必ずしも安全ではありません。むしろ、知識の更新を止めた瞬間に、対策は形骸化し、危うさを帯び始めます。

 実践マニュアルが繰り返し求めているのは、宿泊施設が地域の安全拠点であるべきこと、最新かつ正確な知識を持ち続けるべきこと、そして感染症拡大防止対策そのものを進化させ続けるべきことです。これは、単なる衛生管理ではありません。宿泊施設を、地域における安全・安心のインフラとして再定義する取り組みです。

 私たちは、感染症対策を「点」として終わらせるのではなく、DMO、地域、宿泊施設間の連携を通じて「面」へと広げる必要があると考えてきました。一施設だけが頑張るのではなく、地域全体で知識を共有し、危機に備える。安全・安心・誠実を掲げるサクラクオリティの枠組みは、そのための品質保証の仕組みでもありました。

 そして、あの三年間、私たちは知識を追い続けました。変異株、無症状感染、Long COVID、ワクチン、エアロゾル、リネン、客室清掃、会食、歌唱、バス、航空機、ノロウイルス、サル痘。次々と現れる論点を、宿泊施設の現場にどう翻訳するかを考え続けました。補足資料に積み上げられた膨大な知見は、その格闘の痕跡です。

 知識を追うことは、決して華やかな作業ではありません。しかし、変化する敵に対して、変化しない構えで臨むことはできないのです。

 

三.感染経路を断つ――一律ではなく、空間ごとに

 感染症対策の出発点は、感染経路の正確な理解にあります。接触感染、飛沫感染、エアロゾル感染。この三つを遮断することが、すべての対策の根に据えるべき基本理念です。

 飛沫やエアロゾルのリスクは、距離、換気、湿度、室温、空気の流れ、会話量、滞在時間によって変わります。とりわけ宿泊施設には、マスクを外す場面、飲食、浴場、宴会、エレベーター、喫煙所、客室清掃、バックヤードといった、一般的なオフィスとは比較にならないほど複雑な接点が存在します。だからこそ対策は一律ではあり得ません。空間ごと、業務ごと、顧客行動ごとに、別々のリスク評価が必要です。

 実践マニュアルでは、平常時にも継続すべきレベル0、国内で感染症が発生した際のレベル1、感染拡大期のレベル2、高度な安心感につながるレベル3という四段階の対策体系を示しました。これは、感染状況に応じてアクセルとブレーキを切り替えるための、宿泊施設版リスクマネジメントの設計思想です。

 宿泊施設に必要なのは、過剰な恐怖ではありません。しかし、根拠のない楽観でもありません。必要なのは、状況に応じて対策レベルを判断し、顧客とスタッフの安全を守るために先手を打つ力です。感染が広がってから慌てて対策するのではなく、平常時から段階的な判断基準を持っておくこと。それが、三年間の経験から得た、揺るぎのない教訓です。

 

四.消毒に偏らない――データが語る、目に見えない汚れ

 感染症対策において、強く戒めるべきことがあります。それは、「消毒さえすれば安心」という偏りです。

 エタノールは、脂質二重膜を持つウイルスの失活には有効です。しかし、堆積した汚れやタンパク質を除去する力はありません。順序が肝心です。まず汚れを物理的に落とす。そのうえで、適切な薬剤を、適切な濃度で、適切な手順で、一方向に拭き上げる。この基本を欠いた消毒は、実効性ある対策ではなく、消毒をしているように見えるだけの儀式になってしまいます。

 ATPふき取り検査の結果は、この点を明確に示していました。ロビーソファー、レストランの呼び出しベル、喫煙所のカーテン、ビジネスセンターのテーブル、レストランテーブル、客室のライティングデスクなど、現場感覚だけでは見落とされがちな場所に高い数値が確認されました。清潔に見える場所ほど、管理対象として数値化しなければなりません。清潔は印象ではなく、測定し、記録し、改善すべき品質なのです。

 この視点は、宿泊施設にとって決定的に重要です。宿泊施設は、清潔感を提供する産業です。しかし、清潔感と清潔そのものは、同じではありません。見た目が整っていても、リスクが残っていることがあります。だからこそ、感覚に頼らず、データに基づき、作業手順に落とし込み、継続的に確認する必要があります。

 数値は嘘をつきません。そして、数値だけが、感覚の油断を静かに正してくれます。

 

五.舞台裏こそ、施設の安全を決めます

 感染症対策は、顧客の目に触れる表舞台だけで完結するものではありません。むしろ、施設の脆弱性は舞台の奥に潜んでいます。

 バックヤード、清掃動線、リネン処理、スタッフの更衣室、休憩室、手洗い場、清掃カート、ゴミ処理。資料が指摘するのは、バックヤードの換気の脆弱さ、二酸化炭素計測の不足、ユニフォーム管理の甘さ、そして客室清掃スタッフの防護策の不足です。

 顧客に見える場所だけを整えても、施設の安全は成立しません。顧客に見えない場所で働くスタッフの安全が守られて、はじめて施設全体の安全が立ち上がります。 感染症対策の本質は、顧客に安心していただくことと同時に、そこで働く人々を守ることにあります。

 あの三年間、私たちは「顧客の安全」と「スタッフの安全」を切り離して考えないよう努めてきました。スタッフが不安を抱えたままでは、良いサービスは提供できません。清掃スタッフが防護されていなければ、客室の安全も守れません。バックヤードの換気が不十分であれば、表の対策も脆くなります。

 宿泊施設の安全は、見える場所と見えない場所が一体となって、初めて成立します。表と裏という言葉は、宿泊業に本来ふさわしくありません。あるのは、ひとつの施設、ひとつのチーム、ひとつの安全だけです。

 

六.客室清掃という最前線

 なかでも客室清掃スタッフ向けの対策資料は、特別な重みを持っています。

 客室は、利用者が長時間滞在し、マスクを外し、眠り、食事をし、トイレや浴室を使う空間です。清掃に入る時点で、空間内にすでにウイルス粒子が存在している可能性を前提として持たなければなりません。

 オミクロン株では鼻腔からの感染が強く懸念されるため、二重マスク、作業時間への配慮、換気の徹底が求められます。未使用に見えるグラス類もすべて撤去して洗浄する。清掃担当者と消毒担当者を分ける。リネンを扱う際は埃を舞い上げない。使用済みタオルやシーツは即座に密閉する。清掃後は石鹸で20秒以上洗い、20秒以上すすぎ、手指消毒を行う。これらは単なる細則ではありません。現場で働く人の命と健康を守るための、最前線の行動基準です。

 宿泊施設の品質は、客室清掃によって支えられています。顧客が最も長く過ごし、最も無防備になる場所を整える人たちこそ、宿泊産業の安全品質を支える最前線にいます。だからこそ、客室清掃スタッフの感染対策は、裏方の問題ではなく、宿泊施設全体の品質問題として扱われなければなりません。

 私たちは、清掃という仕事の意味を、もう一度言葉にし直す必要があります。それは、汚れを落とす作業ではなく、次のお客様の安全を整える仕事です。施設の評価は、客室の清掃に始まり、客室の清掃に終わるのです。

 

七.訓練と記録が、組織を強くします

 知識も技術も、訓練と記録によって初めて「組織の能力」になります。

 感染症予防管理シートは、単なるチェックリストではありません。使用薬剤、実施対策、対策レベルごとの実践状況、代替策、定期訓練、緊急時対応、月次の防災・防犯・衛生管理、そして新たな取り組みまで、施設の状態を多面的に可視化する仕組みです。

 緊急時対応シートには、スタッフ罹患時や顧客感染懸念時の意思決定者、休館判断、消毒範囲、濃厚接触者の洗い出し、保健所・病院・行政・取引先・OTA・報道機関・顧客への連絡が整理されています。これは、いざという時に「考えるための紙」ではありません。いざという時に「迷わず動くための設計図」です。

 危機の最中、人は冷静な判断を失いやすくなります。連絡先を探している時間、誰が判断するのかを確認している時間、どこまで消毒するかを議論している時間。その一つひとつが、対応の遅れにつながります。だからこそ、平常時に決め、訓練し、記録し、更新しておく必要があります。

 書かれていないものは、忘れられます。訓練されていないものは、動きません。記録されていないものは、改善されません。安全は、紙とペンと繰り返しの上に、ようやく立ち上がるのです。

 

八.過去は過去ではありません――知の備蓄として

 補足資料に積み上がった膨大な知見は、あの三年間の重みを静かに物語っています。

 防護服の着脱、変異株、Long COVID、ワクチン、感染事例、感染防止対策のミス、ノロウイルス、その他懸念ウイルス。そこには、宿泊施設が理解しておくべき幅広い情報が収められています。

 とりわけ重く受け止めるべきは、新型コロナが単なる呼吸器感染症ではなく、血管、神経、免疫、後遺症、精神面にまで影響し得る複雑な疾患として理解されてきた事実です。無症状感染、エアロゾル、密閉空間、会食、歌唱、バス、航空機、リネン、清掃、接触面。実際の事例から導かれた知見の一つひとつが、宿泊施設の対策に直結します。

 過去の情報は、過去のものではありません。変異株や新興感染症が再び姿を現したとき、これらは次の初動を一日でも早める「知の備蓄」となります。

 私たちは、三年間かけてこの知の備蓄を積み上げてきました。日々変わる情報に追いつくことは容易ではありませんでした。昨日まで正しいと思われていたことが、今日には見直されることもありました。現場には疲労があり、不安があり、時には対策への戸惑いもありました。それでも、私たちは更新を止めませんでした。なぜなら、知識の更新を止めることは、安全の更新を止めることだからです。

 積み上げた知は、誰のものでもありません。次に来る危機の前に立つ、まだ見ぬ誰かのためのものです。

 

九.平穏という名のリスク

 いま社会は、平穏を取り戻したように見えます。しかし、平穏とはリスクが消えたことではありません。

 むしろ、危機の記憶が薄れ、訓練が形骸化し、備品が劣化し、担当者が異動し、現場の知識が静かに断絶していく時期こそが、最も危ういのです。感染症対策は、流行期に慌てて始めるものではありません。平常時に仕組みとして残すべきものです。

 入口の消毒薬。客室接触部位の清掃。レストランテーブルの管理。換気量と二酸化炭素濃度の確認。スタッフの健康管理。手指衛生。緊急連絡網。保健所との連携。月次のヒヤリハット記録。そして、新しいサービス品質への転換。

 これらを「面倒な名残」として手放してしまえば、あの三年間の痛みは、ただの記憶で終わってしまいます。私たちが本当に恐れるべきなのは、感染症そのものだけではありません。感染症から学んだことを、忘れてしまうことです。

 平穏な時間は、備えるための時間です。怠るための時間ではありません。

 

十.「見える対策」から「見せる対策」へ

 宿泊産業は、再び人を迎え、地域に人を呼び戻す産業です。だからこそ、感染症対策はおもてなしと矛盾しません。

 安全があるから、安心が生まれます。安心があるから、滞在の価値が生まれます。 この順序を、もう一度確認したいと思います。

 これから求められるのは、掲示物や消毒液を並べる「見える感染症対策」から、正確な知識に裏打ちされた「見せる感染症対策」への進化です。

 施設がどのようなリスクを認識し、どのレベルで対策し、どのように訓練し、どのように改善しているか。それを顧客に、従業員に、地域に、堂々と語れる状態にすること。これこそが、次の時代のサービスクオリティです。

 「見せる」とは、単にアピールすることではありません。安全に対する姿勢を、説明責任を持って示すことです。自分たちは何を理解し、何を準備し、どのように更新しているのかを、自分たちの言葉で語れることです。それが、顧客の安心を生み、スタッフの誇りを支え、地域からの信頼につながります。

 語れる施設は、強い施設です。語れる組織は、揺らがない組織です。

 

結.知を、次の世代へ

 いつ、どこで、どの感染症が再び猛威を振るうのか、誰にも分かりません。分からないからこそ、備える必要があります。それが、三年間が私たちに残した、最も確かな結論でした。

 止まったように見えた時間の中で積み上げた分析、現場の声、数値、失敗事例、改善策、教育訓練。それらはすべて、未来の宿泊施設を守る資産です。

 あの時間を忘れないこと。それは、恐怖を抱え続けることではありません。平穏な今だからこそ、過去の学びを制度にし、行動にし、文化にすることです。

 私たちは三年間、感染症対策と向き合い続けました。情報を集め、整理し、現場に届け、更新し、訓練し、記録してきました。その歩みは、決して派手なものではありませんでした。しかし、宿泊施設の安全を支える仕事とは、本来そういうものです。誰かの目に触れにくいところで、静かに、粘り強く、確かに積み上げられていくものです。

 だからこそ、この知を埋もれさせてはなりません。危機が去ったように見える今こそ、次の危機に備えるために、三年間の実践知を引き継がなければなりません。

 人を迎えるという仕事が、これからも続いていく限り。 人の安全を守るという責任が、私たちの胸にある限り。

 

——感染症対策の知を、いま、次の世代へ。

 

株式会社日本ホテルアプレイザル代表取締役/株式会社サクラクオリティマネジメント代表取締役/一般社団法人宿泊施設関連協会副理事長 北村剛史

 

 
 
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