今はキャビンアテンダント、昔の呼び名はスチュワーデス。
第1次石油ショックの後、1975年に卒業を控えた女子大生に就職口はそう多くはありませんでした。教育実習を7月に終え、就職課に足を運んでも壁に貼られた求人票には、まれに「女子求人」の赤いハンコが押されているだけ。東京銀行(当時)の為替業務と国際電電(これまた当時)のオペレーター職の求人があるくらいでした。第1志望だった教職の当てもなく、ゼミの仲間たちと、国際線を持つ航空会社に応募した次第でした。「コネがなくては入れない」などと、まことしやかなうわさが飛び交っていましたが、周りを見てもそんなことはほとんどなかったと思います。
当時、労働組合問題を抱えていたこの会社は、大多数の地上職員のいる組合に、まず訓練生を所属させる方針らしく、入社直後は福岡支店での地上業務を命じられました。社会人1年生として、いい経験をさせてもらったと感謝していますが、労働組合問題の複雑さ、深刻さに驚いたこともたびたびでした。後日、山崎豊子氏の「沈まぬ太陽」を読んだ時、うなずく場面が何カ所もありました。綿密な取材で、有名な作家であるとの評判は本当だと感心しながら読んだものです。会社が再生を終えている今なら書いても問題ないかと…。
上京後は、横浜の青葉台にある寮から、早朝、空にまだ姿を見せている月を眺めながら皆で羽田の訓練所へ通いました。寝坊する人も時々いて、頭数を確認し、全員で出発するのが自衛手段でもあり、約束でした。遅刻など決してあってはならないことで、寮生としての連帯責任を問われるほどの指導が普通に行われていたのです。あの頃は、みんな若かった。そして眠かった。