丹沢山地を望む酒匂川流域の里
薪を背負い歩きながら読書する二宮金次郎(尊徳)像は昭和初期から全国の学校に設置された。家事を手伝い勉学に励む姿は手本だったが、像は太平洋戦争の金属供出で撤去された。
その像が昨今見直され、再登場しているという。児童虐待とか、ながら行動とか見当違いな意見もあるが、改めて金次郎に思いを寄せて、生まれ故郷の旧栢山(かやま)村を訪ねた。
小田急線富水駅と栢山駅の間。どちらからも徒歩15分の県道沿いに、二宮尊徳誕生之地碑と尊徳生家、尊徳記念館はあった。
生家は土間、部屋、座敷など当時の姿を昭和35年に復元。この二宮家の長男として、天明7年(1787)に金次郎は生まれた。丹沢や足柄の山を望む酒匂川西岸にひらけた農村だ。
尊徳記念館の展示によると、幸せな幼少期も5歳の時に酒匂川の大洪水で生家の田畑が流失。14歳で父を亡くし、母を助けてよく働き本に親しむが、2年後に母が病死。度々の災害で畑を失う。弟は母方へ、本人は伯父二宮万兵衛宅に身を寄せ、家の再興をめざして働く。捨苗や油菜栽培などでやがて思いを果たす。
周辺にはその石碑や青年期を過ごした万兵衛宅、二宮総本家屋敷のほかに、巴御前が木曽義仲のために建てたという近くの善栄寺には遺髪と遺歯を納めた尊徳の墓があった。
金次郎は32歳の時、実践と学識で深めた能力や手腕を小田原藩主に認められ、分家の下野国(栃木県)桜町領の復興を命じられ用水路改修などで成果を上げた。町名を二宮にするなど地元では今も尊敬されている。
その実績から地域復興や財政立て直しの依頼が相次ぎ、600余の町村の指導に当たった。後年は幕府役人に引き立てられた。
こうした至誠、勤労、分度などに基づく報徳思想は、度々の災害の克服体験やその後の豊富な実践と学識によって育まれたのだろう。故郷を訪ねてその思いが一層深まった。
(旅行作家)
●小田原市尊徳記念館TEL0465(36)2381