早稲田大学大学院経営管理研究科研究科長・教授の池上重輔氏
日本観光振興協会は9月24~27日に東京ビッグサイトで開催された「ツーリズムEXPOジャパン2026」の中で25日、国内観光シンポジウムを開催した。早稲田大学大学院経営管理研究科研究科長・教授の池上重輔氏が「観光を持続的に『働きたい産業』に~価値創造型観光を支える人とキャリアの未来~」をテーマに講演した。
池上氏は9月25日、世界の国際観光市場が今後10年で現在の約285兆円から約450兆円規模へ拡大するとの見通しを示した上で、「インバウンドは自動車産業に匹敵する産業になる」と指摘。観光を単なる消費活動ではなく「価値を創造する産業」として再定義し、2040年に向けた中長期ビジョンの方向性を解説した。
日本の観光競争力は世界3位、しかし「使い切れていない」
池上氏はまず、日本の国際競争力の現状に触れた。スイスのIMD(国際経営開発研究所)が発表する世界競争力ランキングで日本はかつて1位だったが、現在は64カ国・地域中38位に低下していると説明。人材競争力も26位にとどまり、「なかなかいいランキングのものはない」と述べた。
その一方で、世界経済フォーラム(WEF)が発表する旅行・観光競争力ランキングでは、日本は世界3位に位置していると紹介。「数少ない日本がトップ5に入っているランキング」と強調した。
世界の国際観光市場の規模についても具体的な数字を示した。現在、世界中のインバウンドを合計すると年間15億人が移動しており、総収入は年間1.9兆ドル(約285兆円)に上る。これは世界の半導体市場(約200兆円)の1.5倍程度に相当するという。
さらに今後10年でこの市場は2.9兆ドル(約450兆円)に拡大する見通しであり、「世界市場が約500兆円とされる自動車産業に匹敵する規模になる」と指摘した。
政府計画に沿って成長した「稀有な産業」
観光産業はこれまでの政府計画において、「プラン通り、もしくはそれ以上に成長した数少ない産業」だと池上氏は評価する。10年ほど前に政府が掲げた10程度の成長計画のうち、計画通りに伸びたのは観光だけだったという。
また、インバウンドは「国内にいながら外貨を稼げる輸出に近い産業」であると位置づけた。現在、日本最大の輸出品目は自動車で約15兆円弱、次が半導体・工作機械で約10兆円規模。インバウンドはすでに日本第2位の外貨獲得産業となっており、池上氏は「もう10年くらい経つと、日本で最も外貨を稼ぐ産業が入れ替わって、インバウンドがそのポジションを取るかもしれない」と述べた。
政府目標のインバウンド消費額は20兆円だが、池上氏は個人的見解として「30兆円ぐらい行ってもおかしくない」とした。世界の観光市場が450兆円規模になったとき、日本が世界3位の競争力を持っていることを踏まえれば、そのうちの7〜8%を獲得するだけで30兆円規模になるという計算だ。
「もったいない」資源リッチな日本
日本が3位の評価を得ている背景として、池上氏はWEFの評価項目が17に及ぶことを挙げた。価格の安さはその1項目に過ぎず、文化遺産・自然・食・治安・インフラなど多岐にわたる強みが評価されているという。
池上氏自身がこのランキングの日本調査を担当していると明かした上で、「日本はものすごい潜在的にいいものを持っているんだけど、うまく使えていなくてもったいない、と毎回言われて、内心悔しい思いをして帰ってくる」と語った。
特に文化資源については「世界でトップクラスの点数を上げているが、それが活用できているかというと、外から見るとあまりできていないと言われることが多い」と指摘。農業・水産業・工業製造業なども観光に活用できる有力な資源だが、「これがつながっているかというと、つながっていない」として、機会損失の大きさを強調した。
「逆に言うと、それだけ伸びしろが大きい」とも述べ、観光を戦略産業として捉える重要性を訴えた。地方の二次交通整備の問題は「これからより深刻になってくる」とし、交通を含めた戦略的な取り組みの必要性も示した。
「価値密度」という新概念
池上氏が提唱したのが「価値密度」という概念だ。観光客の数や消費額を単純に増やすのではなく、訪問者側と地域側の双方にとっての価値を同時に高める好循環を重視する考え方だ。
池上氏は「同じ100万人が来たとしても、一部に集中して混雑し地域消費が少ない地域と、泊まって食べてくれて、文化体験してくれて、お金を使って地元に還元し、人材育成にも貢献してくれたりして、文化保全して再投資するという地域では、全然違ってくる」と説明。
この価値密度を測る指標として、池上氏は次の5点を例示した。
- 地域内付加価値(消費額だけでなく付加価値がどうか)
- 滞在時間・宿泊数(どれだけ広く体験してもらったか)
- 地域との関係性(再訪率や推奨意向など次の関係につながるか)
- 地域への還元(地域従業者の賃金など)
- 未来への再投資
「書くと面倒くさく見えるが、意識していただくことがスタートだ」と述べた。
「5つの良し」で持続可能な観光を
価値密度を実現するための枠組みとして、池上氏は「5つの良し」を提示した。日本では「三方良し」という概念が知られているが、観光においてはより広い視点が必要だという。
5つの良しとは次の通り。
- 住民良し:地域に住む方々の利益を最大化する
- 訪問者良し:観光客にとって良い体験を提供する
- 働く人良し:賃金や成長機会など従事者にとって良い環境
- 事業者・投資家良し:事業を運営・投資する人々にとって良い状態
- 自然・文化・地域良し:自然や文化を保全・活用・継承する
池上氏は特に5番目を「極めて大事」と強調した。「地域の自然や文化資源を使って観光している以上、それが低減・消費されていくのは持続的ではない。保全・活用・継承が前提となる」と述べた。
投資家との関係については、「観光地域に投資したいという人は結構多い。ただ、どうやって日本の地方とうまくつながっていくかが悩ましいという声をよく聞く」と現状を説明。収入・投資・再投資という循環ループを作ることが重要だと訴えた。
5つの価値が瞬間的には相入れないこともあるとしながらも、「時間軸を伸ばして考えると、結果的には循環の中でお互いが相互利益になる」と述べ、時間軸の視点を持つことを勧めた。
また、オーバーツーリズムについては「過剰集中の問題であり、時間と場所の集中をどう分散するかがポイントだ」と整理。「住んでよし、訪れてよし、働いてよし、それぞれに解決策・対応策がある。ただ、必ずしもその対応方法がわかりやすく共有されていないのが実情だ」と語った。
観光は「つなぐ産業」、データとAIが鍵
池上氏は観光を「民衆産業」「つなぐ産業」と位置づけた。観光地域を中心に農林水産・工芸製造・文化教育・交通・宿泊飲食などをつなぐことが求められており、そのツールがデータとAIだという。
「ある程度基準となるデータがないとつないでいきにくい。ただ、地域ごとに必要最低限のデータでつないでいくという考え方ならスタートができる」と述べた。
特に製造業・工芸・コンテンツといった「今まで必ずしもリンクしていなかった産業とつなぐことがとても大事になる」と強調。産業と産業、地域と地域、人と人をつなぎ直すことが、これからの観光の重要課題だと指摘した。
AI時代における観光のキャリア価値
池上氏は観光産業で働くことの意義について、「人の人生の記憶の一部を支える仕事」と表現した。人の人生にも地域にも日本にも自分自身にも価値をもたらす「貢献志向の産業」であり、「選んだ地域で働き続けられる可能性が最も高い産業の一つが観光だ」と訴えた。
若い世代に向けて発信する6つのメッセージとして、池上氏は次を挙げた。
- 人生を動かす仕事であり、価値観が広がる
- 感動産業であり、幸福産業である
- 日本の価値を外へ伝えられる
- 選んだ地域で生きることができる
- つなぎ直すことで新しいものが生まれる
- キャリアセキュリティが高い(仕事が残る可能性が高い)
AI時代においても観光の価値が高い理由として、「AIやロボットに置き換えられる部分もあり、そこの効率化は必要だが、最後に人間がやらなければならない部分は相当数に上る」と述べた。
「今、学生からコンサルティング会社に就職していいのかという相談が続々と来る。一方で観光は、人の気持ちを汲み取る力や体験を作る力の価値が上がっていく。そういう力を育成するのに最適な産業だ」と語った。
2種類のキャリアパス
観光産業でのキャリアについて、池上氏は2種類のパスを示した。
一つは「現場で力を深めていくキャリア」。現場が好きな人がそこで価値を高めていく5つのステップがあるという。
もう一つは「役割を広げていくキャリア」。迎える人からマネージャーへ、組織を動かし、さらに地域全体へと役割が横・縦に広がっていく形だ。
「どちらにしても、AI時代において人の気持ちを汲み取る力や体験を作る力の価値が上がっていく。そういう力を育成するのに最適なのが観光ではないか」とまとめた。
AIで変わる旅行者の意思決定
旅行者の行動変化についても言及。これまでSNSが情報発信の主流だったが、今後はAIにどれだけ「可視性」があるか——つまりAIに拾ってもらえるかという軸が重要になってくるという。
「本気に人間が読んでも面白いかということも大事だ。AI可視性と人間にとっての面白さ、この二つを両立させることが次の勝負になる」と述べた。また、「人とロボット・デジタル・AIの分担をどう設計するかで差がついてくるかもしれない」として、役割設計の重要性を指摘した。
2040年ビジョン策定の背景
今回のシンポジウムで発表されたビジョンは、日本観光振興協会が池上氏に相談し、業界・地域の企業や中堅・若手メンバーが1年間にわたり議論を重ねて策定したものだ。各論点について現場を知るメンバーがさらに地域や現場に降りて声を集めた。
池上氏は「観光は現地・現場・現物のリアルが極めて大事だ。アカデミックな立場だけでは実際の観光現場でリアリティをもって何が起こっているかを詳細に知る立場にはない」として、現場の声を反映したビジョン策定の過程を説明した。
ビジョンの主なターゲット年は2040年。2040年を見据えると人口減少・少子高齢化はかなり読めた未来であり、「一番大きな機会を捕まえていくための阻害要因となるのが人材ではないか」という前提のもと、ビジョン本体と働き手へのメッセージという2種類のペーパーを作成した。
第5期観光立国推進基本計画に基づく2030年の観光消費額目標は15兆円。池上氏は「観光産業として今後何をしなければならないかをもう一度検討している」と語り、コロナ禍を経た今だからこそ、産業全体で立ち止まって将来の姿を考える必要があると訴えた。
日本観光振興協会は今回のシンポジウムを通じて、このビジョンの方向性と実行すべき事項について業界・地域関係者と広く共有する場としている。池上氏の基調講演に続き、シンポジウムでは日本航空・長野県観光機構・西武プリンスホテルワールドワイド・JR東日本によるパネルディスカッションも行われ、観光産業の方向性・仕事・キャリアの変化について議論が深められた。

早稲田大学大学院経営管理研究科研究科長・教授の池上重輔氏
【kankokeizai.com 編集長 江口英一】




