北村氏
はじめに ― 宿泊施設の価値は「何を持つか」だけでは説明できません
宿泊施設の価値は、施設・設備、客室仕様、付帯機能、サービス項目など、比較的客観化しやすい要素を中心に評価されてきました。こうした評価は、施設間の品質水準を比較し、利用者にわかりやすい指標を提示するうえで、重要な役割を果たしています。一方、宿泊施設の現場には、それだけでは十分に説明できない現象があります。同程度の設備を備え、類似したサービスを提供し、同程度の価格帯に位置する施設であっても、利用者が受け取る満足感や印象、さらには「また利用したい」と感じる強さには、大きな差が生じます。なぜ、この差が生まれるのでしょうか。その理由の一つは、宿泊サービスの価値が、単に「何が備わっているか」だけで決まるのではなく、備わっているものが現場でどのように運用され、どのような顧客体験へ転換されているかによって変化するからだと考えます。本稿では、宿泊施設のサービス価値を、「設備評価」と「運用評価」という性質の異なる二つの軸から捉えます。そして両者の関係を分析することで、宿泊施設が保有する資源が、どのように顧客価値へ変換されるのかを説明する新たな評価フレームワークを提示します。これは、従来の評価方法を否定するものではありません。既存の評価体系が蓄積してきた施設・サービス品質の客観的評価を基盤としながら、そこに「運用能力」という独立した観察軸を加える試みです。
1.宿泊サービスを二つの軸で捉えます
本稿が提案する「二重構造」とは、宿泊施設のサービスを、「何が備わっているか」と「それがどのように使われているか」という二つの軸から同時に評価する考え方です。軸① 設備評価 ―「何が備わっているか」。第一の軸は、施設・設備・サービス機能・仕組みとして、必要な要素がどの程度整備されているかを評価するものです。清潔な客室が維持されているか、十分な照明が確保されているか、快適な寝具が用意されているか、安全対策が整備されているか、必要な情報が提供されているか、といった事項が対象になります。ここでいう「設備」は、建築物や機械設備だけを意味するものではありません。客室備品、サービス機能、業務手順、情報提供の仕組みなど、宿泊施設があらかじめ保有・整備し、継続的に提供できる状態にしているサービス資源全般を含みます。したがって、本稿における設備評価とは、より正確には、宿泊施設が保有するサービス資源の整備水準を評価する軸です。軸② 運用評価 ―「それがどう使われているか」。第二の軸は、備えられた設備・機能・サービスが、実際の現場でどのように運用されているかを評価するものです。同じ設備を持っていても、その使われ方によって顧客体験は大きく異なります。例えば、客室に加湿器が設置されていること自体は設備評価の対象です。しかし、外気の乾燥状況を踏まえて必要な日にあらかじめ準備する、あるいは過去の利用履歴から顧客の嗜好を把握し、到着前に適切な状態へ整えるといった対応は、単なる設備の有無では測定できません。ここで評価されるのは設備そのものではなく、顧客の状態や状況を理解し、保有する資源を適切なタイミングで活用し、顧客価値へ転換する能力です。
2.なぜ「二重構造」が必要なのでしょうか
設備評価と運用評価は、どちらか一方で代替できる関係にはありません。設備評価だけでは、「同じ設備を持つ二つの施設で、なぜ体験価値に差が生じるのか」を十分に説明できません。一方、運用評価だけでは、そもそもサービス提供の前提となる設備・機能・品質水準が確保されているかを判断できません。そのため、宿泊施設の価値を把握するには、「何を持っているか」と「それをどう使っているか」を分けて見る必要があります。概念的には、宿泊価値 = サービス資源 × 運用能力と表現できます。ここでいう「×」は、単純な数学的積を意味するものではありません。保有するサービス資源の潜在価値が、運用能力によって増幅も減衰もするという、価値生成の構造を表しています。設備や機能が充実していても、それが十分に活用されなければ、顧客が受け取る価値は限定されます。反対に、設備上の制約があったとしても、高度な運用によって顧客体験を大きく向上させることができる場合があります。ここに、宿泊施設サービスを二重構造として捉える必然性があります。
3.サービス要素に見られる四つの価値階層
宿泊サービスを構成する諸要素は、すべてが同じ性質を持つわけではありません。顧客に安心を与える基礎的な要素もあれば、宿泊を円滑にする機能的要素、滞在そのものを豊かにする体験的要素、さらに顧客の期待を先読みすることで感動につながる要素もあります。これらは、概念的に次の四つの価値階層として整理できます。第1層 安心の土台。清潔感、維持管理、安全性、プライバシー、安心感など、宿泊施設としての基盤品質です。不足すれば顧客満足を大きく損ないますが、十分に満たされている状態は「当然」と認識されやすい領域でもあります。言い換えれば、欠ければ大きな不満につながる一方、充足しているだけでは必ずしも強い差別化にはつながらない価値です。第2層 機能の充実。迅速性、機能性、丁寧さ、環境への配慮など、宿泊体験を円滑かつ効率的にする機能価値です。業務の標準化、デジタル化、省人化、情報システムの導入などは、この領域を高める重要な手段です。ただし、便利であることと、心に残ることは同義ではありません。第3層 快適性と体験価値。快適性、情報提供、海外利用者への対応、顧客への配慮、地域文化性など、評価の中心が「機能」から「体験」へ移行する階層です。この領域では、単にサービスが存在しているかではなく、「どの程度心地よいか」「自分に合っていると感じられるか」「その土地で過ごす意味を感じられるか」といった主観的な体験が重要になります。第4層 予測力と先行的サービス。共感性、積極性、個別対応、期待予測など、顧客が明確に要求する前に、その状態や期待を察知し、先回りして行動する領域です。顧客がまだ言語化していない需要を推測し、適切なタイミングで価値を提供する能力を、本稿では「予測力」と位置づけます。予測力は、宿泊サービスを単なる機能提供から体験創造へ変換する重要な能力です。
4.機能改善だけでは差別化が持続しにくい
宿泊施設における設備投資、業務効率化、標準化は重要です。スマートチェックイン、モバイルキー、業務自動化などは、運営効率を高めると同時に、利用者の利便性向上にも寄与します。しかし、機能を高めることと、体験価値を高めることは必ずしも同じではありません。サービス要素を階層的に捉えると、機能性に関連する要素が一定の評価領域を形成する一方、より高い評価領域には、快適性、共感性、積極性、顧客配慮など、人間の体験に強く関係する要素が現れる傾向があります。つまり、一定の水準を超えると、設備や機能の「量」ではなく、それらがどのような体験を生み出しているかという「質」が、差別化の中心になります。設備やシステムは、競合施設も導入できます。優れた機能は模倣され、時間の経過とともに標準化されていきます。そのため、機能改善は重要であっても、それだけでは持続的な差別化につながりにくいという側面があります。より高い体験価値を目指す施設では、設備投資と並行して、顧客理解、個別対応、現場判断、情報共有、組織学習といった運用能力への投資が必要になります。
5.快適性における「感動の閾値」
第三層の中でも、特に注目すべき要素が「快適性」です。一定水準までの快適性は、顧客に強く意識されない傾向があります。適切な室温、十分な静音性、清潔な寝具、適度な照明などが標準的な範囲に収まっている場合、顧客はその存在を必ずしも強く認識しません。しかし、ある水準を明確に超えると、評価が質的に変化する場合があります。「よく眠れた」「部屋に入った瞬間に落ち着いた」「非常に静かだった」「ベッドの感触が記憶に残った」といった形で、快適性そのものが記憶に残る体験へ転換するのです。ここには、快適性の連続的な改善が、ある地点を境として感動価値へ変化する非線形性が存在すると考えられます。本稿では、この転換点を「感動の閾値」と呼びます。この考え方は、設備投資のあり方にも重要な示唆を与えます。快適性への投資は、単純に「少し良くする」だけでは顧客に知覚されにくい可能性があります。投資を行うのであれば、顧客が「違い」として認識できる水準まで引き上げることが重要になります。
6.動的昇華 ― 同じサービスでも価値階層は変わります
本モデルの核心となる概念の一つが、「動的昇華」です。サービス要素は、必ずしも一つの価値階層に固定されるものではありません。同じサービスであっても、その運用方法によって、基礎的な価値が、より上位の体験価値へ転換することがあります。例えば「客室清掃」を考えてみます。通常どおり清掃を行い、清潔な客室を提供することは、第1層の「安心の土台」に位置づけられます。しかし、前回の宿泊時に顧客が枕を二つ重ねて使用していたことを記録し、次回の宿泊時には、あらかじめ枕を二つ用意しておくとします。設備評価上は、いずれも「清掃された客室」であり、必要な備品が整えられた客室です。しかし、顧客が受け取る価値は大きく異なります。後者では、単なる清掃行為が、顧客理解、記録、情報共有、事前判断、先行準備を通じて、第4層の「予測力」を伴うサービスへ変換されています。サービス要素そのものに固定的な価値階層があるのではなく、運用の質によって、同じサービスが基礎価値から上位価値へ昇華することができます。これが、本稿でいう「動的昇華」です。
7.「おもてなし」を精神論から組織能力へ変えます
宿泊業界では、「おもてなし」という言葉が広く用いられています。しかし、おもてなしを単なる心構えや接客姿勢として捉えるだけでは、客観的な評価や、再現可能な組織運営へつなげることが難しくなります。二重構造モデルでは、おもてなしを次のように捉え直します。おもてなしとは、顧客の状況・嗜好・目的を理解し、必要となる価値を予測し、組織として適切なタイミングで提供する能力です。この定義に立てば、おもてなしは、個人の才能や感性だけに依存するものではなくなります。顧客情報を記録する仕組み、部門間で情報を共有する仕組み、現場に適切な判断権を与える組織設計、過去の対応から学習する仕組み、顧客の変化を観察する能力などが、その実現を支えます。つまり、おもてなしは、再現可能で、蓄積可能で、組織として高めることのできる能力として捉えることができます。この視点に立つことで、特定の優秀なスタッフに依存する属人的なサービスを、施設全体として継続的に再現できる価値へ変えていくことが可能になります。
8.運用成熟度による再評価
ここで重要なのは、前述した「四つの価値階層」と、これから述べる「運用成熟度」は、異なる概念だという点です。四つの価値階層は「どのような価値を生み出しているか」を示すものであり、運用成熟度は「そのサービスをどこまで高度に運用できているか」を示します。二重構造モデルを実務へ適用するためには、サービス要素を単に「ある・ない」で評価するだけでは十分ではありません。各要素について、どの程度高度に運用されているかを評価する必要があります。その基本形として、レベル1「基礎提供」は必要なサービスが安定して提供されている状態、レベル2「最適化」は品質や効率を高めるための改善が行われている状態、レベル3「個別対応」は顧客の属性、状況、嗜好に応じてサービスが調整されている状態、レベル4「予測対応」は顧客から要求が表明される前に必要となるサービスが提供されている状態と整理できます。この成熟度を各サービス要素に適用することで、「サービス要素 × 運用成熟度」という評価マトリクスを構成できます。これにより、従来の「提供しているか、していないか」という評価だけでは捉えにくかった、サービス運営の質そのものを可視化することが可能になります。
9.施設の格と運用能力を分離する意味
二重構造モデルの重要な特徴は、施設の設備水準と、組織の運用能力を分離して評価できる点にあります。大規模な設備投資を行った施設であっても、運用成熟度が十分でない場合があります。反対に、建築的・設備的な制約を持つ施設であっても、高度な顧客理解と運用能力によって、非常に高い体験価値を提供している場合があります。したがって、高水準の設備を持つことと、高水準のサービス能力を持つことは同義ではありません。この分離は、宿泊施設の改善戦略にも大きな意味を持ちます。現在の課題が、設備不足によるものなのか、運用不足によるものなのか、あるいは両方なのかを区別できるようになるからです。設備に課題があるのであれば投資が必要です。設備は十分でありながら顧客評価が高まらないのであれば、運用の中に改善余地がある可能性があります。従来、一つの総合評価の中に埋没しがちだった改善要因を分解し、「どこに経営資源を投入すべきか」という具体的な意思決定へ結びつけられることが、本モデルの実務上の重要な価値です。
10.「格付け」から「価値創造診断」へ
宿泊施設の評価には、利用者へわかりやすい品質指標を提示するという重要な役割があります。しかし、施設を評価する目的は、それだけではありません。評価結果から、なぜその施設は高く評価されるのか、どこに改善余地があるのか、次に何へ投資すべきなのか、どのような組織能力を育成すべきなのかまで説明できれば、評価そのものが宿泊産業の成長を支える仕組みになります。「設備評価 × 運用評価」の二重構造モデルは、施設の順位を決めることだけを目的としたものではありません。その本質は、宿泊施設が保有するサービス資源を、どの程度顧客価値へ変換できているかを診断することにあります。したがって、本モデルが目指すものは、単なる格付けの精緻化ではありません。宿泊施設の価値創造能力そのものを可視化し、次の改善行動につなげるための診断体系です。
おわりに ― 宿泊業を「装置産業」から「体験創造産業」へ
宿泊施設には、建物、客室、設備、家具、備品、システムなど、多くの物的資源が必要です。その意味で、宿泊業は設備投資を重要な基盤とする産業として発展してきました。しかし、成熟した宿泊市場において、設備の充実だけで持続的な差別化を実現することは、次第に難しくなっています。設備は導入できます。システムも購入できます。優れた備品も調達できます。そして、競合施設も同じものを導入できます。一方、顧客を理解する能力、情報を蓄積する能力、部門を越えて共有する能力、状況に応じて判断する能力、過去の経験から学習する能力、顧客の期待を予測する能力は、短期間で容易に模倣できるものではありません。そこに、宿泊施設固有の競争力が生まれます。これからの宿泊施設評価では、「何を備えているか」だけでなく、「備えたものを、どこまで顧客価値へ変換できているか」を問う必要があります。「設備評価 × 運用評価」という二重構造は、そのための理論的基盤になり得ます。宿泊サービスの価値は、設備そのものの中に存在するのではありません。設備、機能、サービスという資源が、現場の運用を通じて顧客体験へ変換されたとき、初めて価値として顕在化します。これから問われるのは、どれだけ多くの設備を持っているかではありません。持っているものを、どれだけ深い顧客価値へ変換できる組織であるかです。宿泊施設の競争力を測る次の評価軸は、設備の充実度だけではなく、その価値を引き出す「運用能力」にあります。
株式会社日本ホテルアプレイザル代表取締役/株式会社サクラクオリティマネジメント代表取締役/一般社団法人宿泊施設関連協会副理事長 北村剛史




