カスタマーハラスメント防止対策マニュアル」や「啓発ポスター」の活用を呼び掛ける前期労務委員会の皆さん
暴言や過剰なサービスの要求、長時間の拘束、つきまといなど、旅館・ホテルを悩ませる迷惑行為「カスタマーハラスメント(カスハラ)」。まもなく迎える10月からの法改正で全事業者にカスハラ対策が義務付けられることを踏まえ、日本旅館協会は6月、「カスタマーハラスメント防止対策 宿泊業界団体マニュアル」と「啓発ポスター」を策定・制作した。策定に当たった前期(2023~25年度)労務委員会の5氏に、マニュアルの特徴や活用方法などについて聞いた。(聞き手=編集部・溝部あゆ美)
委員長 山口敦史氏
副委員長 渡邉玲緒氏
カスハラ分科会チームリーダー 沖野恭彰氏
カスハラ分科会 緒方真美氏
カスハラ分科会 幾世英磨氏
――策定に至った背景は。
山口 カスハラが社会問題として認識されるようになったことが大きな背景にある。厚生労働省が公表した「2023年度職場のハラスメントに関する実態調査」では、過去3年間にカスハラを受けたと回答した労働者は全体の10.8%と、パワハラに次いで多い状況だ。また、23年の旅館業法改正で、カスハラを繰り返す迷惑客の宿泊を拒否できるようになったことも大きい。
会員施設からの相談も相次いでいた。特に多かったのが、OTA(オンライン・トラベル・エージェント)の口コミやSNSなど、インターネット上の投稿を巡る問題だ。こうした実態も踏まえ、労務委員会で2年にわたり検討を重ね、マニュアルを策定した。
カスハラは従業員の離職にもつながる深刻な問題であり、人手不足が続く宿泊業界にとって看過できない課題だ。各施設が独自にルールを設けるだけでは対応の根拠を示しにくい面もある。協会として一定の指針を示し、業界全体で共通の認識を持つことに意義があると考えた。

山口氏
――マニュアルの構成や特に重視した点は。
沖野 全6部構成で、宿泊業におけるカスハラ対策に必要な情報を網羅している。「未然防止の取り組み」をはじめ、カスハラの判断基準や対応フロー、警察との連携などをまとめた「カスハラ発生時の対応」、従業員のケアや再発防止策を示した「発生後の対応」のほか、関係法令や判例、裁判例についても盛り込んだ。
宿泊業は、24時間営業であることや酒席の場面が多いことなど、業界特有の特徴がある。「お客さまは神様」という風潮や、「おもてなし」の文化を逆手に取った過度な要求に直面する場面も少なくない。マニュアルでは、こうした業界特有の実態を踏まえ、現場でカスハラかどうかの判断に迷いやすい事例を整理し、共通の認識に基づいて対応できるようにした。
特徴的なのは、長時間の拘束について、対応時間を「30分程度」という明確な目安を示したことだ。時間の基準を設けることで、現場判断のばらつきを防ぐとともに、責任者が対応を打ち切る際の根拠にもなる。
また、お客さまとのやり取りにおける「録音・録画」についても、法的に問題がないことを踏まえ、フロントでのカメラ設置や音声記録の活用を盛り込んでいる。
巻末には、宿泊施設がカスハラ対策の実施状況を把握できるよう、経営者向けと従業員向けの「カスハラ対策チェックシート」や、カスハラ発生時の「対応記録表」も収録した。チェックシートは、現場ですぐに使うことができ、チェックボックス形式でカスハラ対策の実施状況を確認できる。実際に当館でも活用している。

沖野氏
――現場では、クレームとカスハラの判断に迷う場面も多い。
沖野 その点についても、判断基準を整理している。正当な意見や要望であっても、要求の内容や方法が社会通念上の範囲を超えていれば、カスハラに該当する可能性がある。一方で、施設側に非がある場合は、誠実に対応することが大前提だ。
マニュアルでは、カスハラ発生時の対応を「初期対応」「2次対応」「外部連携」の3段階に整理した「対応フローチャート」を示した。まずは現場の担当者が状況を整理し、丁寧な説明によって事態の沈静化を図る。それでも改善が見られない場合は、上司や現場責任者が対応を引き継ぎ、必要に応じて対応を中断する。さらに悪質なケースについては、警察や弁護士などの外部機関と連携する流れを整理した。
全てのクレームをカスハラと決めつけてはいけない。適切な初期対応によって、クレームがカスハラへと発展するのを防げる場合もある。
――場面別の対応事例も充実している。
沖野 簡易版マニュアルに収録した「場面別対応」は、会員施設などを対象に実施したアンケートで寄せられた約400件のカスハラの内容をもとに作成した。経営者だけでなく、現場の従業員から寄せられた声も取り入れ、パターン別に整理している。
事例の一つが、近年の宿泊業界を象徴する事例ともいえる、外国人スタッフに対する偏見や差別的な言動だ。「外国人は信用できないから日本人スタッフを呼べ」といった発言は、明確なカスハラ行為に当たる。外国人材が増えている今だからこそ、こうした言動を明確に位置付ける必要があると考えた。
――自館でのカスハラの実態と、その対策について。
幾世 部屋食を提供していた時期は、お客さまと従業員が一対一で接する時間が長く、対応に苦慮する場面も少なくなかった。「おもてなし」への期待が高く、個室という閉ざされた空間の中で、お客さまと従業員との間に上下関係のような意識が生まれることもあった。レストラン形式へ移行して以降は、一対一で接する機会が減り、カスハラに該当するようなケースはほぼなくなった。
渡邉 当館では以前から、チェックイン時に宿帳の記入と併せてカスハラに関する基本方針を案内し、必ず同意してもらっている。「当館はこうした方針で対応する」ということをあらかじめ示すことで、過度なクレームの抑止にもつながっていると感じている。

渡邉氏
山口 以前は、こちらに明らかな落ち度がない場合でも、その場を収めようと謝罪するケースが少なくなかった。誤解があれば丁寧に説明し、非があれば誠実に謝罪するという考え方へと改めていった。
当館は外国人材も多いが、人権侵害や差別的な言動については容認しないという方針を明確にし、経営者があらかじめ対応方針を定めておくことも徹底している。現場から上司へ対応を引き継ぐ際にも、対応の基準が共有されていれば、自信を持って毅然と対応できるようになる。
――啓発ポスターの特徴は。
沖野 ポスターは、「従業員向け」と「お客さま向け」の2種類を用意した。従業員向けでは、録音・録画や複数人での対応、上司への相談、先ほど述べた30分ルールなど、現場で取るべき対応を盛り込み、お客さま向けでは、カスハラ行為の防止をイラスト付きで分かりやすく呼び掛けている。
――マニュアルやポスターを、会員施設にどのように活用してもらうか。
沖野 まず取り組んでほしいのが、マニュアルにも収録している「カスハラに対する基本方針」を、宿泊約款と合わせて自館のホームページに掲載することだ。旅館協会のホームページからダウンロードでき、施設名を入れるだけでそのまま活用できる仕様になっている。掲載することで、自館の方針をお客さまに示すことができ、トラブルが発生した際にも、対応の根拠を示すことができる。
緒方 マニュアルとポスターはセットで活用してほしい。マニュアルは、宿泊業のカスハラ対策に必要な情報を網羅した「詳細版」と、対応の要点をまとめた「簡易版」の2種類を用意した。まずは簡易版に目を通して基本的な対応を理解してもらい、対応に迷った際には簡易版を見返してもらう。その上で、必要に応じて詳細版を参照してもらう流れを想定している。
ポスターは、館内やバックヤードで活用してほしい。何よりも大切なのは、従業員をカスハラから守ることだ。利用者への注意喚起はもちろん、会社が従業員の味方であるという姿勢を明確に示し、「1人で抱え込まなくてもよい」というメッセージを発信することも重要になる。
当館では若手従業員が多く、カスハラへの対応が初めてという人も多いため、新入社員研修でマニュアルを活用している。「正しく対応しなければ」と気負わず、対応が困難な場合にはすぐに上司へ引き継ぎ、助けを求めてよいと伝えている。

カスハラ対策に効果的な「啓発ポスター」。従業員向け(左)とお客さま向けの2種類を制作し、イラスト付きで理解しやすい内容とした
――労務委員会として今後の課題と展望を。
渡邉 実用的なマニュアルになったと考えているが、会員への認知はまだ十分とはいえない。今後は会合の場などを通じて丁寧に説明し、現場への浸透を図っていきたい。
山口 業界全体への浸透も欠かせない。策定したマニュアルとポスターは、全国旅館ホテル生活衛生同業組合連合会(全旅連)や全日本ホテル連盟(ANHA)と連携し、各団体の名義で展開している。業界全体で共通認識を持ち、カスハラ対策に取り組んでいく。
――読者の旅館・ホテルにメッセージを。
幾世 このマニュアルの一番の価値は、「ルールがある」という安心感だ。「何分で上司に引き継ぐか」「どのようなケースで警察へ相談するか」といった判断基準が明確になることで、従業員が1人で抱え込まず、迷わず対応できるようになる。従業員が安心して働けるためのツールとして、大きな効果があると考えている。

幾世氏
緒方 お客さまは、宿にいい思い出を作りに来てくださっているのであって、クレームを言うためにいらっしゃるわけではない。カスハラになる一歩手前には、旅館側にも改善すべき点があることが多い。だからこそ、まずは私たち自身が丁寧な仕事を積み重ねることが大切だ。それでも避けられないケースに備えるために、このマニュアルがある。旅館で働く人にも人権があることを、お客さまにも理解してもらえるよう発信し続けていきたい。

緒方氏
山口 本来は宿とお客さまは対等な関係であり、その考え方をマニュアルでも明確に示している。従業員の中には「お客さまだから、何でも対応しなければならない」と思い込んでいる人もいるため、その認識を改めることも大切だ。

カスタマーハラスメント防止対策マニュアル」や「啓発ポスター」の活用を呼び掛ける前期労務委員会の皆さん





