北村氏
一、ホテルは、いつ完成するのか
ホテルは、建物が完成した日に完成するのでしょうか。
客室が整い、ロビーに花が生けられ、厨房に火が入り、開業のテープが切られる。施設としてのホテルは、確かにその日に完成します。しかし、本当のホテルは、そこから始まるのだと、私は思います。最初のお客様を迎え、スタッフが言葉を交わす。喜ばれ、ときには叱られ、失敗を直し、また次のお客様を迎える。地域の人々と挨拶を重ね、その土地の季節や文化を知っていく。そうした日々の積み重ねの中で、ホテルは少しずつ、そのホテルだけの表情と性格を持ちはじめます。建物や設備は、ホテルの身体です。サービスは、その身体が示す行動です。つくった人と働く人の思いは、ホテルの心です。そしてブランドは、そのホテルが何者であるかを示す人格です。これらが別々に存在しているうちは、ホテルはまだ、建物とサービスの集合にすぎません。身体、行動、心、人格が自然につながったとき、ホテルは初めて、単なる不動産を超え、一つの意思を持つ存在のように感じられるようになります。本稿では、この状態を「ホテルの生物性」と呼びます。
聞き慣れない言葉かもしれません。しかし、この仕事に長く携わってきた方であれば、心当たりがあるはずです。
「あのホテルには、何かがある」
「あの旅館には、血が通っている」
「建物は古いのに、なぜかまた帰りたくなる」
私たちは、そうした感覚を確かに持ちながら、十分な言葉を与えられずにきました。ホテルの生物性とは、その感覚に一つの名前を与えたものです。
ここでいう生物性とは、建物が文字どおり生き物になるという意味ではありません。空間、人、サービス、思想が一つに結びつき、お客様の心の中で、一つの人格を持つ存在として受け止められる状態を意味します。人は、企業や商品、建物、ブランドに対しても、温かさ、誠実さ、品格、親しみやすさといった人間的な特徴を感じ取ります。したがって、ホテルの生物性は単なる文学的な比喩ではなく、人間の認知を土台とする、検証可能な理論仮説なのです。
二、お客様は、ホテルを一つの存在として見ている
お客様は、ホテルを利用するとき、建物、客室、料理、接客を切り離して評価しているわけではありません。
玄関を入った瞬間の空気、館内の香り、照明の明るさ、廊下の静けさ、スタッフの表情、声の調子、客室の清潔さ、寝具の感触、夕食の一皿、朝の光、そしてチェックアウトの一言まで、すべてを一つの滞在として受け取っています。¹
たとえば、深夜に到着したお客様が、ロビーで少し肩を落としている。その気配に気づいたフロントスタッフが、チェックインの合間に、そっと一杯の白湯を差し出す。翌朝、そのお客様が「昨日はありがとう」と、小さく笑う。ホテルの体験とは、こうした連なりのことです。
一杯の白湯の原価は、わずかです。しかし、そこには「あなたの疲れに、私たちは気づいています」「ここでは、安心して休んでください」という、ホテルからの無言のメッセージがあります。お客様は、そのメッセージを受け取っています。私たちが思っている以上に、正確に。だからこそ、どこか一つに違和感があるだけで、体験全体が崩れることがあります。広告では「温かな滞在」を約束しているのに、実際の対応は事務的である。豪華なロビーの奥に、手入れの行き届かない客室がある。地域との共生を掲げながら、料理にもサービスにも、その土地らしさが感じられない。
お客様は、それを明確な言葉にはしないかもしれません。しかし、心のどこかで確かに「何かが違う」と感じています。そして静かに、二度目の予約をしなくなります。
反対に、落ち着いた内装、穏やかな照明、静かな所作、温かな言葉、地域の恵みを感じる料理が同じ方向を向いているとき、お客様はこう感じます。
「このホテルは温かい」
「このホテルは誠実だ」
「このホテルには品がある」
人は、人間ではない対象にも人格を感じます。ブランド研究では、ブランドに対して誠実さ、活力、洗練、能力といった人間的な特徴が知覚されることが示され、顧客がブランドと継続的な関係を築き、そこに愛着や意味を見いだすことも理論化されています。²
ホテルは、とりわけ人格を感じられやすい事業です。
人を迎え、眠りを守り、食事を用意し、困っているときに手を差し伸べる。記念日を祝い、失敗すれば頭を下げる。これらはすべて、本来、人と人との間で行われることです。
だからこそ、お客様は、建物、スタッフ、料理、サービス、ブランドを一つの存在として受け止め、最後には、こう感じるのです。
「このホテルは、私を大切にしてくれた」
ホテルに命が宿るとは、建物が動き始めることではありません。お客様の心の中で、空間と人とサービスと思いが、一つの人格として結ばれること。それが、ホテルが生きているということの、本当の意味です。
三、ホテルの生物性は、足し算ではなく掛け算である
本稿では、ホテルの生物性を次のように表します。
ホテルの生物性=ハードウェアの魅力×サービスの温かさ×ブランドの一貫性×学習・改善する力
ここで大切なのは、これが足し算ではなく、掛け算であることです。
足し算なら、一つの要素がゼロでも、他の要素によって数値は残ります。10+10+10+0であれば、合計は30です。しかし、10×10×10×0はゼロになります。
これは、一つの要素が弱ければ、そのホテルに経済的価値がないという意味ではありません。ここでゼロに近づくのは、売上や不動産価値ではなく、一つの生きた存在として感じられる力です。
そのホテルは、営業を続けることができます。当面は、数字も出るかもしれません。しかし、お客様が少しずつ戻らなくなり、スタッフが誇りを失い、地域との会話が減っていく。ホテルは一夜にして倒れるのではありません。少しずつ、静かに、痩せ細っていくのです。
私がこの仕事を通じて何度も見てきたのは、この静かな痩せ細り方でした。派手な失敗ではなく、静かな摩耗です。誰か一人が悪いのではなく、四つの器官のどこか一つが、いつの間にか止まっていた。それだけで、ホテルは少しずつ、生きた存在としての力を失っていきます。
この掛け算が示しているのは、四つの要素が完全には代替できないということです。³
どれほど美しい建物でも、フロントの一言が冷たければ、お客様は「立派な建物」とは感じても、「生きたホテル」とは感じにくくなります。
どれほど優秀なスタッフが一人いても、ホテル全体のブランドに一貫性がなければ、その魅力は個人の力量にとどまり、ホテルの人格にはなりません。
そして、いま素晴らしいハード、サービス、ブランドがあっても、お客様の声を聞かず、改善を止めれば、ホテルは時間とともに生命力を失っていきます。⁴
ホテルは、一つの強みだけで立つのではありません。複数の器官がつながり、一つの身体として働くことで、初めて生きるのです。
なお、つくり手と働き手の「心」は、四要素と並ぶ単純な第五の部品ではありません。
心とは、ハード、サービス、ブランド、学習を同じ方向へ結びつける内的な意思です。心がなければ、立派な建物も、丁寧なサービスも、やがて理念を失った形式に変わります。
心は、ホテルの一つの器官ではありません。血液のように四つの器官すべてに流れ込み、それらを一つの生命として動かすものなのです。
四、学び続けるホテルは、成長する
生き物の最も重要な特徴は、外から情報を受け取り、自らを変えていくことです。
ホテルにとっての情報とは、アンケートの一行、口コミの評価、お客様のふとした一言、ベテランスタッフが感じた違和感、若いスタッフの率直な疑問、地域の人々が語る変化です。
「案内表示が分かりにくい」と言われ、サインを直す。「朝食に土地らしさがない」と言われ、地域の生産者を訪ねる。車椅子のお客様の不便に気づき、動線を見直す。外国人のお客様がメニューの前で困っている姿を見て、写真や説明を添える。
一つひとつは、小さな変更です。しかし、その中には二つの尊いものがあります。「昨日までの自分たちは完璧ではなかった」と認める勇気と、「明日はもう少し良くなろう」とする意思です。
改善が積み重なると、お客様は「このホテルは前より良くなった」と感じます。それは、単に設備が新しくなったという意味ではありません。
「このホテルは、私たちの声を聞いている」
「このホテルは、経験から学んでいる」
その気配を、お客様は敏感に感じ取ります。私たちが思っている以上に、はっきりと。⁵
人が成長するのと同じように、ホテルもまた、過去の経験を受け止め、自分らしさを失わずに行動を変えることで成熟します。変わらない理念と、変わり続けるサービス。この二つを同時に持つホテルだけが、本当の意味で成長できるのです。
五、既存研究とホテル生物性モデルの位置
現時点で、ハードウェアの魅力、サービスの温かさ、ブランドの一貫性、学習・改善する力を一つの式にまとめ、ホテルの生物性を直接測定した研究はありません。したがって、この乗算式がすでに統計的に証明されていると断定することはできません。
一方で、モデルを構成する各要素は、既存研究によって支えられています。物理的なサービス環境は、顧客の感情や行動に影響します。サービスに感じる温かさは、信頼や満足、関係継続の意思に影響します。ブランドに感じる人格や一貫性は、愛着や長期的な関係形成に関係します。そして、経験を組織内で共有し、改善に結びつける学習力は、サービス品質と持続的な競争力を支えます。
既存研究が、それぞれの器官の働きを明らかにしてきたのに対し、本稿は、それらがつながったときに初めて、ホテルという生命的存在が立ち上がると考えます。
経営学における補完性の考え方では、一つの活動の効果は、ほかの活動の水準や組合せによって変わるとされています。また、最も不足した必須要素が全体の成長を制約するという考え方も、本モデルを理解するための補助的な比喩になります。ただし、これらの理論から、数学的に掛け算だけが一意に導かれるわけではありません。本稿の乗算式は、四要素の非代替性と相互依存性を、最も直感的に表現する理論モデルです。
つまり、これは実証済みの公式ではありません。しかし、既存研究によって各構成要素を固め、その統合形として提示された、検証可能で理論的妥当性の高い仮説です。
仮説であることは、弱さではありません。まだ誰も一つに結んでいなかった知見を結び、新しい問いを生み出すこと。それこそが理論の始まりです。
そして、この仮説の意味を日々の現場で確かめ、形にしているのは、ほかならぬ、ホテルで働く人々自身なのです。
六、成長の方向を定めるもの―SDGs
ただし、生き物は、ただ大きくなればよいわけではありません。どの方向へ育つのか。それが、その生き物の品格を決めます。売上や客室単価だけを追いかければ、短期的には数字が伸びるかもしれません。しかし、従業員が疲れ、地域から浮き、環境に負担を残しているのであれば、それを本当の成長と呼べるでしょうか。
だからこそ、ホテルには、成長の方向を示す羅針盤が必要です。本稿では、その羅針盤をSDGsに求めます。
SDGsは、節水、節電、プラスチック削減だけではありません。地域文化を守ること、地域経済に貢献すること、働く人が誇りを持てる職場をつくること、人権と多様性を尊重すること、災害時に地域の支えとなること、責任ある調達を行うことも含まれます。
現場では、「SDGsは大型ホテルの話で、日々の運営で精一杯の自分たちには縁がない」と感じられることもあるでしょう。もっともな感覚です。
しかし、地域の生産者から仕入れることも、水回りの無駄を減らすことも、スタッフが辞めない職場をつくることも、すべてSDGsの実践です。SDGsとは、大規模な活動の名称ではなく、日々の判断の方向をそろえるための共通言語なのです。
ただし、コスト削減をSDGsと言い換えるだけでは、ホテルの人格は育ちません。
地元の食材を選ぶ理由を、料理長が自分の言葉で語れること。従業員を大切にする姿勢が、接客の余裕や温かさとして自然ににじみ出ること。環境負荷を下げる工夫が、お客様の快適さと対立せず、新しい価値へつながっていること。地域の歴史や文化が、建物、料理、サービス、人の言葉の中に息づいていること。
そこまで一貫して初めて、SDGsはホテルの外側に貼られた看板ではなく、ホテルの人格になります。したがって、SDGsは、ホテル生物性を構成する五つ目の部品ではありません。ブランドの一貫性を深く根づかせ、学習・改善する力に方向を与えるものです。
ホテルが何を大切にし、誰とともに成長し、どこへ向かうのかを決める遺伝情報であり、羅針盤なのです。
七、おわりに―ホテルで働く一人ひとりへ
ホテルは、人を泊めるための箱ではありません。
身体としてのハードウェアがあり、そこに行動としてのサービスが加わる。つくり手と働き手の心が流れ込み、そのホテルらしさとしての人格、すなわちブランドが立ち上がる。そして、お客様や地域の声を受け止め、改善を続けることで、ホテルは経験を記憶し、少しずつ成長していきます。
だから、ホテルマンが毎日行っている仕事は、単なる作業ではありません。
一室を丁寧に整えること。お客様の表情から、言葉にならない要望を読み取ること。一つのクレームを、次の改善へつなげること。地域の魅力を、自分の言葉で伝えること。その一つひとつが、ホテルの身体を動かし、人格を形づくり、命を育てています。
ホテルの仕事は、結果がすぐには見えない仕事でもあります。整えた客室を誰がつくったのか、お客様は知らないかもしれません。深夜の小さな気遣いも、報告書には残らないかもしれません。一つの苦情から生まれた改善も、数年後には当たり前となり、誰もその始まりを覚えていないかもしれません。
それでも、その仕事はホテルの中に残ります。文化として残り、サービスとして残り、次のスタッフの行動として残り、いつかお客様の記憶の中に残ります。
ホテルは、そこで働いた人々の名前を、すべて記録してはいないかもしれません。しかし、そこで働いた人々の思いは、確かにホテルの中に受け継がれていきます。建物は、時がたてば古くなります。それは避けられません。しかし、ホテルは違います。
そこで働く人が学び続ける限り、ホテルは、ただ古くなるだけではありません。昨日より少し優しく、少し賢く、少しこの土地に必要とされる存在へと成長することができます。
ホテルとは、完成した不動産ではありません。人を迎え、人から学び、地域とともに歩き、社会とともに成熟していく、成長する一つの生き物なのです。そして、その命を今日も育てているのは、システムでも、資本でも、建物でもありません。ホテルで働く、一人ひとりです。
一室を整えること。お客様に一言をかけること。疲れた人に、一杯の白湯を差し出すこと。その一つひとつが、ホテルという生き物の、確かな鼓動なのです。
注
¹ サービス環境に関する研究では、空間、光、音、香り、温度、案内表示などの物理的環境が、顧客および従業員の認知、感情、行動に影響する枠組みが示され、その後の研究によって検証されてきた。ホテル領域でも、館内環境が顧客の感情、満足、滞在評価、再利用意向などに関係することが報告されている。
² ブランド人格に関する研究では、消費者がブランドに人間的な特徴を感じ取ることが測定可能な概念として示されている。また、消費者がブランドと継続的な関係を形成し、そこに愛着や意味を見いだすことも理論化されている。
³ 経営学における補完性の考え方では、組織の諸活動は独立して機能するだけでなく、一つの活動の効果が、ほかの活動の水準や組合せによって変化するとされる。本稿の乗算モデルは、この相互依存性と非代替性を直感的に表現する理論モデルである。ただし、補完性理論から乗算式が数学的に一意に導かれるものではない。
⁴ 最も不足した必須要素が全体の成長を制約するという最小律は、本モデルにおいて、一つの著しく弱い要素がホテル全体の生物性を低下させる構造を理解するための補助的な比喩として位置づけられる。
⁵ 組織学習に関する研究では、現場の経験や知識を組織内に蓄積し、共有し、次の行動へ反映する力が、サービス品質、革新、環境適応、長期的な競争力に関係することが示されている。
主要参考文献
Bitner, M. J.(1992)“Servicescapes: The Impact of Physical Surroundings on Customers and Employees,” Journal of Marketing, 56(2), 57–71.
Aaker, J. L.(1997)“Dimensions of Brand Personality,” Journal of Marketing Research, 34(3), 347–356.
Fournier, S.(1998)“Consumers and Their Brands: Developing Relationship Theory in Consumer Research,” Journal of Consumer Research, 24(4), 343–373.
Milgrom, P. and Roberts, J.(1995)“Complementarities and Fit: Strategy, Structure, and Organizational Change in Manufacturing,” Journal of Accounting and Economics, 19(2–3), 179–208.
Argote, L.(1999)Organizational Learning: Creating, Retaining and Transferring Knowledge, Kluwer Academic Publishers.
株式会社日本ホテルアプレイザル代表取締役/株式会社サクラクオリティマネジメント代表取締役/一般社団法人宿泊施設関連協会副理事長 北村剛史




