東海大学観光学部教授 崔載弦氏
観光の出発点は「好奇心」にあり
近年、日本の観光政策においては「高付加価値化」が重要キーワードの一つとして位置づけられている。しかし、その議論の多くは、宿泊単価の上昇や施設の高級化、高額消費やそれらを誘発する観光コンテンツの開発といった経済的な側面で語られることが多い。地域が「稼ぐ力」を高めることはもちろん不可欠だが、それだけで観光の本質的価値を十分に説明することはできない。では、旅行における真の「価値」とはどのように作られるのだろうか。地方でのある体験を手がかりに、その本質を考えてみたい。
猛暑日が続く8月下旬、北海道で開催された学会の翌日、知床周辺の観光まちづくりに関する視察ツアーに参加した。バスの車窓には、いかにも北海道らしい広大で整然とした農地が広がっていた。ふと幹線道路沿いに続く高さ数メートルに及ぶ構造物が目に留まった。一見して用途の分からないその柵は、「防雪柵」と呼ばれるものだった。冬季の地吹雪による吹きだまりを防ぎ、視界と安全を確保するための設備だという。地域を知る人の説明によって、その風景は単なる柵から北海道の厳しい冬を物語る観光資源へと変わった。
地域住民には日常風景にすぎない防雪柵も、旅行者にとっては「なぜここにあるのか」という好奇心を喚起する対象となる。「なぜここにあるのか」「どのような仕組みなのか」という好奇心が芽生え、この「違和感」と「好奇心」こそが、観光の出発点となるのである。
物語(ストーリー)が生む価値
視察の途中、地域の歴史を紹介する史料館(斜里町立知床博物館)を訪れた。当初は、どこの街にもある郷土史料館だろうと、さほど期待はしていなかった。しかし、館内には予想外の展示物があった。弘前ねぷた祭りで使われる大型山車である。「なぜ、この北の大地に?」。地域を熟知し、案内役を買って出ていた北里大学の先生の解説によって、その謎は解けた。
文化4年(1807年)、幕府の命により津軽藩士たちが北辺警備のため知床(斜里)に派遣されたが、多くが厳しい環境の中で命を落としたという。この「津軽藩士殉難事件」という悲痛な歴史と、それを契機に結ばれた弘前市との今なお続く深い絆、そして長く埋もれていた記憶が、地域の大切な文化(しれとこ斜里ねぷた)として再構築されていたのである。
ここで重要なのは、展示物という「モノ」ではなく、それに付随する「物語(ストーリー)」である。単なる物体としての展示は、文脈がなければ意味を持たない。しかし、その背後にある歴史や人々の経験が語られたとき、対象は「記憶の媒介」へと転換し、訪問者は過去と現在を結びつけ、物語に思いをはせる。ある人にとっての日常の風景や歴史が、解釈や文脈を与えられることで、他者にとって特別な観光資源へと転換される。これこそが観光の本質に他ならない。
「稼ぐ力」と「意味を見出す力」が生む高付加価値
この体験から見えてくるのは、高付加価値化の二つの側面である。一つは、施設やサービスの質の向上、価格設定といった供給側の「稼ぐ力」である。そしてもう一つが、供給側と需要側の双方が紡ぐ「意味を見出す力」である。
観光の高付加価値化の本質は、必ずしも物理的な高級性にのみ依存するわけではない。旅行者が地域の歴史や文化、暮らしの意味を理解し、深い精神的充足や学習的満足が得られたとき、その体験は結果として高い対価を支払うことも受容されうる価値となる。むしろ、事象に加えられる適切な文脈こそが、地域の日常を価値ある観光資源へと変える。そして、これらの価値転換の担い手こそが、「ガイド」である。
「意味」を支えるガイドの役割
現代の観光において、情報そのものはネットを通じて容易に入手できる。旅行者は事前に多くの知識を得たうえで現地を訪れる。しかし、それらの断片的な情報を統合し、その土地の文脈と結びつけて「意味のある体験」として再構成することは容易ではない。
優れたガイドは、単なる情報の伝達者ではない。対象に内在する物語を、旅行者の関心や理解を引き出しながら有意義な体験へと昇華させる存在である。適切な説明、視点の誘導、感情への働きかけによって、旅行者の好奇心をさらに喚起し、観光をただの「消費行為」から「価値ある体験」へと導く。
観光とは、単に対象を見る行為ではなく、その対象に社会的・文化的意味を見出す行為でもある。今後の観光地経営においては、ハードウェアの整備や高価格化の追求にとどまらず、「いかに物語を構築し、伝えるか」というガイドの能力向上への投資が不可欠だ。地域の日常に存在する事物が、ガイドによって文脈化され、旅行者の好奇心と結びついたとき、観光の本質的な高付加価値化が実現する。車窓から見えた防雪柵も、史料館の山車も、そこに意味が見出され、語られてこそ、観光資源としての真価を発揮するのである。
東海大学観光学部教授 崔載弦(チェジェヒョン)
大阪府立大学大学院経済学研究科博士課程修了。博士(経済学)。専門は、インバウンド(訪日旅行)、観光の社会性、オーバーツーリズム、外国人労働者と日本型サービス。旅行会社、インバウンド誘致アドバイザー、ビジネスコンサルティング、研究所勤務を経て、2021年から現職。韓国出身。




