SDGs時代のホテル価値 ~「共感半径」が宿泊産業の競争力を決める~ 北村剛史


北村剛史氏

 これからのホテルや旅館にとって、本当の競争力とは何でしょうか。私は不動産鑑定やホテル評価の実務の中で、稼働率や客室単価だけでは説明できない強さを持つ宿に何度も出会ってきました。客室が特別に豪華なわけではなく、大規模な広告をしているわけでもない。それでも地域から信頼され、スタッフが誇りを持って働き、結果として長く安定した収益を生んでいる宿があります。

 そのような宿に共通するものを、私は本稿で「共感半径」という言葉で表したいと思います。共感半径とは、宿が心を配る範囲のことです。目の前のお客様だけでなく、働くスタッフ、地域の人々、取引先、自然環境、そして未来の世代にまで、どこまで思いを広げられるか。その半径の長さが、これからのホテルや旅館の価値を決めていくと考えます。

 SDGsは、ともすると省エネ、脱プラスチック、地元食材の使用、認証取得といった取り組みの一覧として語られます。もちろん、それらは大切です。しかし本質はそこだけではありません。SDGsの根底にあるのは、「誰一人取り残さない」という考え方です。つまり、これまで見落とされがちだった人や自然、未来の世代にまで配慮の範囲を広げることです。そう考えると、ホテルや旅館にとってSDGsとは、単なる規制対応や社会貢献ではなく、宿の価値を高めるための新しい経営の視点だと言えます。

 

 子どもは、人にも動物にも植物にも、壊れたおもちゃにさえ自然に心を寄せます。ところが大人になるにつれて、私たちの共感の範囲は少しずつ狭くなります。仕事、役割、責任、効率、損得。そうしたものに囲まれるうちに、「自分に直接関係のある人」や「目の前の仕事」にだけ意識が向かいやすくなるのです。これは個人が冷たいからではありません。現代の社会や仕事の仕組みそのものが、人の共感を狭めやすい面を持っているのです。

 ホテルや旅館の現場でも同じです。お客様の満足だけを見て、スタッフの疲弊を見ない。売上だけを見て、地域の負担を見ない。建物の美しさだけを見て、その土地の自然や文化を見ない。そのような状態では、これからの時代に選ばれ続ける宿にはなりにくいでしょう。SDGs時代の宿泊産業に必要なのは、この狭くなった共感の範囲を、もう一度広げることでもあります。

 

 「共感半径」は、五つの段階で考えると分かりやすくなります。

 第一段階は、目の前のお客様です。快適に過ごしていただくこと、丁寧にもてなすこと、不便や不満を減らすこと。日本のホテルや旅館は、この段階では世界的に見ても高い水準にあります。

 第二段階は、働くスタッフです。お客様に良い体験を提供するためには、働く人が疲弊していてはいけません。人手不足が深刻になる中で、スタッフが誇りを持てる職場であることは、宿の大きな競争力になります。

 第三段階は、地域社会と取引先です。宿は地域から切り離されて存在することはできません。地元の農家、漁師、職人、商店、交通事業者、清掃会社、行政、住民との関係が、宿の価値を支えています。

 第四段階は、自然環境です。温泉、海、山、川、森、雪、星空、農村景観。多くの宿は自然の恵みを使って価値を生んでいます。その自然を守ることは、単なる社会貢献ではなく、自らの商品価値を守ることでもあります。

 第五段階は、未来世代です。今の宿泊体験が、十年後、二十年後の地域や自然にどのような影響を与えるのか。地域の子どもたちが大人になったとき、ふるさとに帰ってきたいと思える観光地であるか。ここまで考えられる宿は、単なる宿泊施設ではなく、地域の未来をつくる存在になります。

 

「共感半径」という言葉は、やや理念的に聞こえるかもしれません。しかし実際には、経営数字にも深く関係します。

 第一に、価格を維持する力です。「共感半径」が広い宿では、お客様は単に部屋や食事にお金を払っているのではありません。「この宿に泊まることが地域の応援になる」「この滞在は自然を大切にしている」「この宿を選ぶことに意味がある」と感じることができます。この感覚は、価格競争から抜け出す力になります。ホテル経営でいうADR、つまり平均客室単価を下げずに維持する力につながります。

 第二に、地域からの信頼です。観光客が増えすぎて地域住民の生活や自然環境に負担がかかる状態を、オーバーツーリズムと呼びます。これからのホテルや旅館は、地域に歓迎されなければ長く続けることが難しくなります。地域の人から「この宿があってよかった」と思われることは、広告では買えない資産です。不動産評価の視点から見ても、地域と良い関係を築いている宿は、長期的な事業リスクが小さくなります。許認可、採用、災害時の協力、地元事業者との連携など、さまざまな面で安定性が高まるからです。

 第三に、働く人の誇りです。給与だけで人を集めることが難しい時代に、自分の仕事が誰の役に立っているのか、自分の宿が地域にどんな価値を生んでいるのか、それを実感できる職場には強い引力があります。その誇りは接客の質を高め、離職を減らし、教育コストの削減にもつながります。

 ここで、「共感を経営に使うことは、共感を商品化することではないか」という反論もあるでしょう。たしかに、地域文化や自然保護を表面的な演出として使うだけなら、それは危ういことです。しかし、本気で地域や自然に向き合い、その姿勢を滞在体験としてお客様と共有することは、共感を安売りすることではありません。むしろ、宿泊という時間を通じて、お客様の感受性を広げる大切な機会になります。

 また、「小規模旅館にそこまでの余力はない」という声もあるかもしれません。しかし、「共感半径」は必ずしも大きな資本投下を意味しません。地元の農家から直接仕入れる。近隣の職人の仕事を紹介する。地域の子どもたちの活動を応援する。清掃や食材ロスを見直す。お客様に土地の物語を丁寧に伝える。こうしたことは、大型投資がなくても始められます。むしろ小規模旅館の方が、地域や自然との距離が近く、共感半径を広げやすい面があります。

 ホテルや旅館には、SDGsを説明するだけでなく、体験として感じてもらう力があります。棚田の風景を見て農家の苦労を知る。海辺の宿で海洋ごみの現実に触れる。古民家に泊まり、地域の歴史を感じる。地元の祭りや手仕事に触れ、その土地で生きてきた人々の時間を感じる。こうした体験は、単なる知識ではなく、身体に残る記憶です。

 人は旅の中で、日常では閉じていた感受性をもう一度開くことがあります。仕事の肩書きや日々の忙しさから少し離れ、子どもの頃のように、自然や人の営みに心を動かされる瞬間があります。ホテルや旅館は、その瞬間をつくることができます。宿泊という一晩、二晩の時間の中で、人の感じ方を少し変えることができる。ここに、宿泊産業の文化的な力があります。

 AIが言葉をつくり、機械が労働を代替する時代に、ホテルや旅館が売るべきものは、豪華さだけではありません。絶景だけでも、便利さだけでもありません。これからの宿泊産業の価値は、単なる快適さや非日常性だけでは測れません。訪れる人が、その土地の人々、自然、文化、未来とのつながりを感じられる滞在にこそ、新しい競争力が生まれます。

 お客様が、地域に心を寄せる。自然に心を寄せる。働く人に心を寄せる。未来の世代に心を寄せる。そして、自分の暮らしや旅のあり方を少し見つめ直す。そのような滞在を設計できる宿こそ、SDGs時代の主役になります。これからの競争力は、豪華さの競争だけではありません。どこまで広く、やさしく、深く、心を配れるか。その「共感半径」を文化として根付かせられるホテルや旅館こそが、SDGs時代に選ばれ続ける宿となり、次代の宿泊産業の本当の価値をつくっていくのです。

 

株式会社日本ホテルアプレイザル・株式会社サクラクオリティマネジメント

北村剛史

 
 
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