地域体験の「機会損失」から考える宿泊施設と観光市場の役割 Regional Experience Opportunity Loss in Hospitality: From Disappointment to Anger and Its Implications for Tourism Markets 北村剛史


北村氏

 ホテルや旅館に宿泊していて、時として不思議なほど強い感情を抱くことがあります。客室が多少狭かった、設備が少し古かった、料理が期待したほどではなかった。こうしたことであれば、感情は多くの場合「残念だった」で収まります。ところが、ある種の宿泊体験では、「怒り」に近い感情へ変わることがあります。なぜなのでしょうか。

 本稿でいう「地域体験の機会損失」とは、地域資源が存在しないことではありません。食、文化、歴史、人、風景、産業といった魅力がすでにあるのに、旅行者に認識される体験へ変換されず、本来得られたはずの旅行価値が失われることです。

 旅行者は、ホテルや旅館だけを利用しているわけではありません。その土地に泊まり、その地域を体験しています。だからこそ宿泊施設には、客室や食事を提供するだけではない役割があります。土地にあるものを見つけ、意味を与え、宿泊客に伝え、体験へ変換する役割です。

 たとえば朝食に、その地域を代表する食材や料理が並んでいたとします。それが地域の名産であることも、その背景の歴史も説明されなければ、宿泊客にとっては「朝食に置いてある一品」で終わってしまいます。「この地域で古くからつくられてきた名産です」。この一言が加わるだけで、ただの食事が「この土地でしか得られない体験」に変わります。地域資源は、存在しているだけでは顧客価値になりません。旅行者が認識できる形に翻訳されて、初めて体験価値になるのです。地域資源 × 意味づけ = 地域体験、という関係です。

 さらに日本には四季があります。春の山菜、初夏の鮎、秋の茸、冬のカニ。その時期にしか出会えない食材や風景に意味づけが加われば、同じホテルでも体験は季節ごとに変わります。地域資源 × 季節性 × 意味づけ = その時、その場所でしか得られない体験。「また違う季節に来たい」という感情は、そのまま再訪需要につながります。

 問題は、その意味づけがなされなかったときです。旅行者は最初、「少し残念だな」と感じます。しかし、その地域に魅力的な食文化、歴史、産業、風景、物語があると気づくと、感情が変わります。「こんなに良いものがあるのに、なぜ伝えないのだろう」。この瞬間、感情は「残念」から「怒り」に近づいていきます。

 

 心理学では、怒りは単に期待が外れたときに生じる感情ではないと考えられています。「それは避けることができたはずだ」「本来もっと良くできたはずだ」と認識したときに、怒りは強くなります。地域資源がなければ旅行者も仕方がないと思うでしょう。しかし、食材も、歴史も、文化も、人もいます。それなのに体験へ変換されていない。しかも改善に大きな投資は必要ありません。案内を一枚置く、メニューに一文加える、スタッフが一言説明する。それだけでよい場合もあります。だからこそ「できたのに、しなかった」と感じられ、失望が怒りへ変わるのです。

 この感情の流れは、「期待 → 体験不足 → 失望 → 回避可能性の認知 → 宿泊施設への責任帰属 → 怒り」、と整理できます。怒りの強さには「改善の容易さ」が関係すると考えられます。概念的には、「得られたはずの体験価値 ÷ それを実現するために必要だった工夫」が大きいほど、怒りは増幅しやすいと考えられます。ほんの一言、ほんの一枚の説明で大きな価値が生まれたはずだと分かるほど、「なぜしなかったのか」という感情は強くなるのです。

 この問題が特に顕在化しやすい接点が、レストラン運営です。客室で表現できる地域性には限界がありますが、料理には、地域の農業、漁業、畜産、発酵文化、歴史、季節、器、酒、そして人々の暮らしまでを一皿に入れることができます。食事とは、地域を五感で理解する行為です。レストランが地域との接点を十分につくれていないと、旅行者は強い違和感を覚えます。

 もちろん、地域料理だけを出せばよいという意味ではありません。フレンチでも、イタリアンでも、中華でも構いません。重要なのは、「なぜこの場所で、この料理なのか」が伝わっているかどうかです。地元の魚や野菜、地域の器を使い、土地の食文化を現代的に再解釈する。それだけで食事は単なる消費から地域体験へ変わります。逆に土地との関係が見えなければ、旅行者は「ここで食べる意味は何だろう」と感じ、その積み重ねは「このホテルは地域を理解していないのではないか」という評価にまで広がります。問われるのは味だけではなく、ホテルや旅館の姿勢そのものです。

 さらに、失望が怒りに変わると、影響は本人の中だけで終わりません。残念だった宿泊客は次回利用しないかもしれません。しかし怒った宿泊客は、家族や友人に話し、口コミを書き、交流サイトで経験を共有し、ブランド全体への評価を下げかねません。経営上の概念モデルとして整理すれば、次のようになります。

 

怒りによる経済損失 = 本人の将来利用喪失 + 同伴者・家族への波及損失 + 口コミによる潜在顧客喪失 + ブランド評価低下による将来収益損失

 

 一組の宿泊客が怒って再訪しなくなれば、失われるのは一回の宿泊代だけではありません。将来何度も利用したはずの顧客生涯価値が失われ、経験が他人に伝われば潜在顧客まで失われ、オンライン上の評価が残れば影響は長期間続きます。失望の経済損失が本人中心であるのに対し、怒りの経済損失は周囲へ伝播するのです。

 ここに、観光市場全体で考えるべき視点があります。地域体験の機会損失は、一つのホテルだけの問題ではありません。旅行者はときには「その地域は思ったほど面白くなかった」と認識してしまいます。一施設の失敗が、地域全体の評価を下げる可能性があるのです。

 逆もまた同じです。一つのホテルが地域の食材を丁寧に伝える。一人のスタッフが地域の魅力を説明する。一軒の旅館が近隣の店を紹介する。それだけで旅行者は地域へ出て行きます。飲食店を利用し、地場産品を購入し、観光施設を訪れる。宿泊施設が地域を正しく翻訳することは、地域内消費を生み、滞在時間を延ばし、回遊を促し、再訪需要を生み出す可能性があるのです。

 旅行者は、その地域を好きになりたいのだと思います。せっかく時間と費用を使い、その土地まで来ているのです。土地ならではのものに出会い、歴史を知り、地元の人が大切にしてきたものを味わいたい。その場所に来た意味を感じたい。宿泊客は、ホテルや旅館に地域との「橋渡し」を期待しています。期待が満たされないとき、「サービスが悪かった」ではなく、「この地域をもっと好きになれたはずなのに」という感情が残ります。

 その怒りは、地域を嫌いだから生じるのではありません。もっと知りたい、もっと好きになりたいという期待があったからこそ生じる怒りです。だからこそ、地域体験の設計は単なる「おもてなし」の問題ではなく、観光経済そのものの問題です。ホテル・旅館の役割は、地域資源をすべて自前で用意することでも、高額な設備投資をすることでもありません。地域にすでにあるものを見つけ、つなぎ、意味を与えることです。そして宿泊施設だけで完結する必要もありません。飲食店、農家、漁業者、酒蔵、工芸家、商店街、観光施設、観光地域づくり法人。ホテルや旅館は、地域の担い手を旅行者と結びつける結節点になれます。

 旅行者は宿泊施設に、ときには一日、二日、三日と滞在します。食べ、眠り、スタッフと話し、地域を眺める。これほど長い時間、旅行者と地域をつなぐ場所は、決して多くありません。だから私は、宿泊施設を「地域を旅行者に翻訳する装置」と考えています。食文化を翻訳する。歴史を翻訳する。産業を翻訳する。人の営みを翻訳する。季節を翻訳する。そして旅行者を地域へ送り出す。翻訳がうまくいけば、旅行者は「この土地に来てよかった」と感じ、次に「また来たい」という感情が生まれます。それは宿泊施設だけの利益ではありません。再訪、飲食、買い物、観光、交通へと需要が広がり、地域全体に経済効果をもたらします。

 そう考えると、旅行者の怒りは単なるクレームではありません。「この土地は、もっと魅力的に伝えられるはずです」というメッセージが含まれています。それは旅行者がわがままだからではなく、もっと知りたい、もっと好きになりたいという期待が強かったからこそ生まれる感情なのです。

 大きな設備投資をする前に、まず館内を歩いてみてください。朝食を見る。レストランのメニューを見る。客室から外を眺める。売店の商品を見る。スタッフの説明を聞いてみる。そして自問するのです。「ここに、この地域はあるでしょうか」「宿泊客は、この土地に来た意味を感じられるでしょうか」「旅行者がホテルの外へ一歩踏み出したくなる仕掛けがあるでしょうか」。答えが十分でなければ、まだ大きな可能性があります。一枚の説明カード、メニューの一文、スタッフのひと言。そのわずかな工夫が、一生残る旅の記憶になるかもしれません。

 ホテルや旅館は、地域の魅力をゼロからつくる場所ではありません。地域にすでにある魅力を見つけ、磨き、伝え、体験へ変える場所です。そして、その体験を館内だけに閉じ込めず、旅行者を地域へ送り出す場所でもあります。新しい観光資源をつくることだけが観光市場の成長ではありません。すでにある地域資源を、旅行者が価値として認識できる状態にすることも同じくらい重要です。

 地域にある魅力を、旅行者の記憶へ変える。その積み重ねこそが、一つの宿泊施設の価値だけではなく、地域の価値を高め、日本の観光市場そのものを豊かにしていくのではないでしょうか。

 

株式会社日本ホテルアプレイザル代表取締役/株式会社サクラクオリティマネジメント代表取締役/一般社団法人宿泊施設関連協会副理事長 北村剛史

 
 

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