東海大学観光学部教授 崔載弦氏
観光の「量から質へ」の転換と通訳ガイドの役割
先日、調査で訪れた山梨県富士吉田市での出来事である。インバウンドの小団体客を案内するドライバー兼ガイドに、その一行の訪問目的を尋ねようと声をかけた。しかし、ほとんど日本語で意思疎通ができない。日本語で十分な意思疎通ができないガイドが、日本の観光地や観光資源をどの程度理解し、それを旅行者に的確に伝えられるのだろうか。観光体験の質をどのように担保するのかを改めて考えさせられた。
数年前、オランダ旅行中に自転車ツアーに参加した。ガイドは単に名所を巡るだけでなく、運河の歴史や現地のライフスタイルを風景と巧みに結びつけて語ってくれた。それによって、単なるサイクリングではなく、その土地の歴史や暮らしへの理解を深める体験につながった。
今日、日本のインバウンド政策は、訪日客数の拡大とともに「高付加価値化」への転換が進められている。これは単なる高額消費ではなく、「体験全体の質」の向上を目指す考え方でもある。オランダで経験した自転車ツアーは、その好例である。
国際観光において、言語や文化の壁を越えて旅行者と観光地をつなぐ通訳ガイドは、付加的なサービスではなく、観光体験の中核を担う存在である。優れたガイドは、風景や建造物に適切な物語(文脈)を与え、旅行者を深い理解と感動へと導くことで、新たな観光価値を創出する役割を果たす。観光の高付加価値化を論じるうえで、「誰がどのように観光地を語るのか」というソフト面の質を抜きにすることはできない。
規制緩和がもたらす光と影-日韓の制度比較
日本の通訳ガイドを取り巻く制度や環境は、近年大きく変化している。日本では、これまで「通訳案内士」制度が整備され、高度な知識や語学力を備えた専門人材として位置づけられてきた。しかし、訪日外国人旅行者の急増とニーズの多様化に対応するため、2018年に通訳案内士法が改正され、従来の業務独占規制が廃止された(名称独占は維持)。これにより、資格を持たない者でも、有償で通訳案内業務を行うことが可能となった。
この規制緩和は、ガイド不足への対応や供給拡大には一定の効果をもたらした可能性がある。一方で、高付加価値化を目指す現在の観光戦略との関係では、必ずしも整合的とはいえない側面もある。参入障壁が大きく下がった結果、「ガイドの質をいかに担保するか」という新たな課題が浮上する。
ここで比較対象として韓国に目を向けると、異なるアプローチが見えてくる。韓国の「観光通訳案内士」は、現在も資格制度に基づく管理が維持されており、無資格者による有償ガイド行為には、使用者(旅行業者)や本人に対して厳格な罰則が設けられている。これは日本の業務独占規制の廃止とは対照的であり、制度設計を通じて観光サービスの品質管理を維持している。
韓国でも人材確保や市場環境の変化への対応は課題となっているが、資格制度を通じて一定の品質管理を維持しようとする姿勢は、日本が観光の高付加価値化を進めるうえで参考になる。制度が厳格すぎれば市場の柔軟性が失われ、逆に緩和しすぎれば粗悪なサービスの横行を招くリスクがある。重要なのは、規制を強化するか緩和するかではなく、「観光の質と旅行者の満足度をいかなる仕組みで支えるのか」という観点から制度を設計することである。
市場全体の底上げにつながる制度設計
高付加価値観光の推進には、旅行者に質の高い体験を提供する専門職として、通訳ガイドの役割がこれまで以上に期待される。求められるのは、高度な語学力や地域知識にとどまらず、異文化理解、公正な旅行や社会規範への配慮、緊急時対応能力、さらには地域資源を価値ある体験へと再構成する能力である。こうした専門性の確保と向上には、資格制度を単なる参入要件ではなく、一定水準以上の品質を社会に示す「信頼の証」として再定義し、能力を総合的に評価・育成する仕組みへと刷新することが重要である。
通訳ガイドは、高付加価値観光を支える基盤的人材であり、観光体験の質を左右する核心的な存在である。今後の観光政策においては、通訳ガイドを単なる供給量の問題として捉えるのではなく、観光の質的向上を担う制度的資源として位置づけ、その育成と活用を戦略的に進めることが求められる。
東海大学観光学部教授 崔載弦(チェジェヒョン)
大阪府立大学大学院経済学研究科博士課程修了。博士(経済学)。専門は、インバウンド(訪日旅行)、観光の社会性、オーバーツーリズム、外国人労働者と日本型サービス。旅行会社、インバウンド誘致アドバイザー、ビジネスコンサルティング、研究所勤務を経て、2021年から現職。韓国出身。




