20年の調査から見えてきた、「日本の宿泊業が守ってきた価値」 北村剛史


北村剛史氏

 20年という時間は、長いようでいて、宿泊業を語るには決して長くありません。それでも、現場を訪ね、客室の扉を開け、朝食会場に立ち、浴場の空気に触れ、女将の言葉に耳を傾け、フロントスタッフの所作を見つめ続けた20年は、私たちに一つの確信を残してくれました。日本の宿泊業の価値は、目に見えるものだけでは決して測れない、ということです。設備でも、面積でも、星の数でもなく、その向こう側にある「人の手の跡」と「土地の記憶」のなかに、本当の価値は静かに息づいています。宿泊施設とは、単にお客様を泊める場所ではありません。旅の疲れを受け止め、地域の文化を伝え、人と人との距離を整え、また訪れたいという記憶を育てる場所です。そのことを、現場はずっと前から知っていました。私たちが20年の調査を通じて学んできたのは、その現場の知恵を、どのように見落とさず、どのように言葉にし、どのように次の時代へ手渡すかという問いでした。

 

 宿泊体験を支えるものを、私たちは「ハード」「ソフト」「ヒューマン」という三つの視点で見つめてきました。ハードは、建物、客室、設備、備品など、お客様を取り巻く環境です。ソフトは、清掃、案内、食事提供、運営の仕組みなど、お客様に直接届けられるサービスです。ヒューマンは、スタッフ一人ひとりの所作、声、間合い、気配りといった、人によって表れ方が変わる最も柔らかな部分です。この三つに分けて考えるのは、施設を細かく裁くためではありません。むしろ、すべての施設が最新の設備や広いロビーを持てるわけではないなかで、限られたハードを、清掃の徹底で、案内の工夫で、心のこもった接遇で、運営の知恵で補い、お客様に深い満足を届けている現場の努力を見落とさないためです。大切なのは、不足を数えることだけではありません。目に見えにくい努力を、価値としてきちんと受け止めることです。

 

 世界の格付けは、長い間、上下の階段を描いてきました。けれども、20年の現場を通じて見えてきたのは、宿泊業は階段ではなく、地図だということです。1スターには1スターの役割があり、2スターには2スターの魅力があります。3スター、4スター、5スターにも、それぞれ異なるお客様、異なる利用場面、異なる期待があります。終電を逃した夜に、ひとまず安心して眠れる場所を求める人がいます。観光の起点として、明るい雰囲気と便利な立地を求める人がいます。家族や友人と食卓を囲み、街へ出ていく時間を支えるホテルがあります。地域の記憶を担い、街の風景の一部となるホテルがあります。一生に一度の夜を、非日常の空間で受け止めるホテルがあります。どれが上で、どれが下ということではありません。その施設が、誰に向けて、どのような時間を届けようとしているのか。それぞれの場所で、それぞれの役割を果たしていると見つめ直したとき、日本の宿泊業の本当の豊かさが立ち上がります。

 

 長く現場を見てきて、もう一つ強く感じることがあります。ホテルにも旅館にも、それぞれの「人格」があるということです。それはフロントの第一声に表れ、ロビーの空気に表れ、スタッフ同士の目配せに表れ、清掃の仕上がりに表れ、朝食会場の動き方に、廊下の静けさに、見送りの背中に表れます。AIが進化し、システムが洗練され、省人化が進むこれからの時代だからこそ、人がつくる空気の価値は、ますます大きくなっていくはずです。効率は大切です。省力化も避けては通れません。けれども、効率だけでは、心に残る滞在にはなりません。会話のほんのひと呼吸、気づきの早さ、踏み込みすぎない配慮、何も言わずに整えておくこと。数字に乗りにくいそうしたものこそが、お客様の記憶のなかに、いちばん長く残ります。

 

 おもてなしには、二つの時間軸があります。到着時の笑顔、荷物への手、最初の案内といった、短い時間で生まれる温かさ。そして、滞在を重ねるなかで育まれていく信頼、好みへの気づき、「またこの宿に帰ってきた」と感じさせてくれる安心。前者は旅の始まりを明るくし、後者はお客様の人生のどこかに、その宿の灯を残します。観光立国として日本が成熟していくために本当に必要なのは、一度来ていただくことだけではありません。もう一度帰ってきたいと思っていただける宿泊体験を、日本中に育てていくことです。ホテルや旅館は、単なる宿泊場所ではありません。お客様と地域をつなぐ拠点であり、ときには、その地域そのものを思い出すための入口になります。

 

 ESGやSDGsという言葉が、宿泊業の現場にも広く届くようになりました。けれども、それらは表示や取得を目的にするものではないはずです。日本のおもてなしには、もともと循環の思想が深く流れています。水を大切にする手、森を敬う心、海の恵みに感謝する所作、季節を料理に映す目、ものを長く使い、手入れをし、次の世代へ手渡していく姿勢。私たちはそれを、わざわざ「サステナビリティ」と呼ぶ前から続けてきました。宿泊施設は、地域の消費者であると同時に、地域の守り手でもあります。川を守り、森を案内し、漁師を支え、農家とつながり、職人の仕事を客室に置く。その積み重ねが、地域の風景を未来へ残していきます。それをお客様に押しつけるのではなく、そっとお伝えすること。そこに、日本の宿泊業ならではのサステナビリティのかたちがあります。

 

 そして、旅館については、あらためて書かなければなりません。旅館は、ホテルの縮小版でも、ホテルの古い形でもありません。旅館には、旅館にしか流れていない時間があります。靴を脱ぎ、畳に上がり、お茶をいただき、湯に向かい、季節の料理に手を合わせ、布団で眠る。その一つひとつの所作が、日常の速度をやわらかくほどいていきます。旅館の魅力は、設備の豪華さだけではありません。自然、歴史、建築、食、湯、しつらえ、所作。それらが重なり、その土地に身を置く感覚をつくり出すことにあります。だからこそ、旅館をホテルの物差しだけで測ってはなりません。旅館には、旅館として見つめるべき価値があります。

 

 旅館では、ハード・ソフト・ヒューマンという三層が、人の所作のなかにさらに深く溶け込んでいきます。ふすまをそっと開ける手、畳の上の足音、料理を置くときの指先、お辞儀の角度、声をかける間合い、気配を消して部屋を整える背中。それらは一見すると、ささやかなことです。けれども、そのささやかさの積み重ねが、旅館の品格をつくります。文化は、説明だけでは伝わりません。人の動きのなかに静かに現れたとき、初めてお客様の心に届きます。近すぎず、遠すぎず。急がせず、放っておかず。言いすぎず、足りなくもなく。この繊細な間合いこそ、世界にも伝わりうる、日本の宿泊文化の深みです。

 

 旅館の感動は、大きな演出からだけ生まれるものではありません。打ち水で石が艶やかになる朝。お茶がそっと用意されている廊下。花の咲くタイミングが調えられている床の間。料理が食べる時間に合わせて仕上げられる厨房。お客様が気づかないところで、次の快適さが準備されている。その「気づかれないかもしれない」工夫こそが、期待をほんの少しだけ、しかし確かに上回ります。その「少しだけ」が、お客様の心に長く残ります。旅館のおもてなしは、褒められるためのものではありません。整えておくこと。待っておくこと。備えておくこと。その静かな姿勢こそ、旅館の感動を支えています。

 だからこそ、評価や調査のあり方を、私たちはもう一度問い直さなければなりません。評価とは、本来、「伝えるため」にあるべきものです。格付けもまた、上か下かを決めるためだけのものではなく、その宿がどのようなお客様に、どのような時間を届ける場所なのかを示すためのものであるべきです。地域に根ざした旅館の魅力、長年守られてきた料理と湯の文化、女将やスタッフが培ってきた接遇、建物や庭に宿る物語、家族で守ってきた屋号、何代にもわたり磨かれてきたしつらえ。それらに光を当てることは、一軒の宿のためだけではなく、地域全体の誇りを支えることにもつながります。

 

 日本の宿泊業は、目立たない努力を積み重ねることで、世界に誇る安心と信頼を築いてきました。客室を整える手があります。湯を守る目があります。料理を仕上げる勘があります。玄関でお客様を迎える声があります。夜の館内を見守る静かな足音があります。朝、何事もなかったかのように一日を始められるよう、深夜から動いている人がいます。その一つひとつは、日々の仕事のなかでは当たり前として流れていくかもしれません。けれども、その当たり前こそが、日本の宿泊業の品質です。

 

 評価や調査の意味は、現場を裁くことではありません。現場にすでにある価値を、見つめ、言葉にし、伝わる形に整え、未来へ手渡すことです。宿泊施設は、地域の入口であり、文化の案内人であり、人と人をつなぐ場所であり、旅の記憶を支える社会資本です。そして何より、人が人を迎える場所です。どれほど時代が変わっても、旅の最後に心に残るのは、豪華さだけではありません。そこに流れていた空気、交わした言葉、整えられていた部屋、温かかった湯、朝の光、見送ってくれた人のまなざし。その記憶の重なりが、日本の宿泊業をつくってきました。

 

 これからの宿泊業に必要なのは、施設を一列に並べることではなく、一軒一軒が守ってきた誇りを、地域へ、お客様へ、そして次の世代へ手渡していくことではないでしょうか。ホテルも旅館も、それぞれの個性を大切にしながら、地域とともに歩み、日本らしい安心と感動を、静かに、確かに、世界へ届けていく。その営みを、これからも現場とともに見つめ、記録し、未来へ丁寧に手渡していきたいと思います。

株式会社日本ホテルアプレイザル代表取締役/株式会社サクラクオリティマネジメント代表取締役/一般社団法人宿泊施設関連協会副理事長 北村剛史

 
 
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