陸前高田から東京の大学に進んだ父と釜石出身の母から生まれた筆者は、幼いころから毎夏、盆帰省が恒例行事だった。従兄姉(いとこ)とともに高田松原や米崎小学校のプールで泳ぎ、神田葡萄(ぶどう)園のぶどう液(ジュース)を水筒に、ときには田んぼを駆け回った。震災後、その田んぼは、イオンスーパーセンター陸前高田店になった。
それに比べて釜石は都会だった。母の、そして私の生家は百貨店「丸光」の裏手、大町1丁目で、敷地の一部を買物客の専用駐車場として貸していた。部屋の一室には富山の薬売りが居候しており、夜にもなれば男衆が呑兵衛横町へ繰り出す。製鉄でにぎわっていたころの釜石はきらびやかで、今も脳裏に焼きついて離れない。その生家は津波にやられて、今はイオンタウン釜石になった。
それを、とある会合のスピーチで語ったとき、イオンモール元社長の岡崎双一氏が驚いて駆け寄ってきて、頭を下げて寄こされた。東日本大震災は、人や景色だけでなく、被災地の流通、小売にも大きな変化をもたらした。
12年目の3・11を1週間後に控えた日、釜石市の野田武則市長が市の職員とともに淑徳大学東京キャンパスを訪ねてくれた。釜石市と淑徳大学の連携協定締結式に臨むためである。その道すがら、随行職員の一人、金野尚史さんから、「下川原先生(祖父)のご遺体を、最初に確認したのは私です」と打ち明けられた。衝撃だった。
あのとき、遺体安置所に掲げられたホワイトボードには性別や身体特徴、推定年齢がつづられていた。祖父とおぼしき欄には「70歳から80歳」とあったのだ。
震災当時、104歳だった祖父は、マスターズ陸上・投てき三種目のアスリートとしてギネスブックにも載る世界記録保持者。腕立て伏せを日課に身体を鍛え、内閣府から「エイジレス・ライフ実践者」の称号を与えられたほどの体躯の持ち主だった。
それにしても13回忌法要を目前に、がれきのなかから祖父をみつけ出してくれた人に、まさか東京で会えるとは。「70歳くらいにしか見えなくて」と、すまなそうに語ってくれたが、それも故人からすれば名誉なことだ。自身の家族も顧みずに夜を徹して安否確認などの作業にあたられた市の職員の皆さんの当時の様子を思い出し、今度はこちらが深々、頭を下げた。
仕事の都合で法要は、1泊2日のとんぼ帰りだった。釜石へ行く前に、陸前高田の父の生家に立ち寄って仏壇に手を合わせた。震災当時はかやぶき屋根で築130年の旧家は、浸水も倒壊も免れた。
高齢の伯母を気遣い、その夜は、「キャピタルホテル1000」に宿をとった。代表取締役社長で陸前高田市議会議員の松田修一さんにお世話になった。復興が進み、明るい兆しがみえたときにコロナに見舞われたが、5類移行のこれからが本当のスタート。松田さんの今後の活躍を大いに期待する。
復興道路の全線開通で内陸や宮城・仙台が近くなり、かえって人口流出を招いた三陸被災地。復興マネーに群がった人たちは姿を消した。これからが正念場だ。
12年前の惨状を目の当たりにしたとき、「ずっと寄り添う」と心に決めた。若い人たちを呼び込む新たな仕組みづくりに、これからも尽力するつもりだ。
(淑徳大学 経営学部 観光経営学科 学部長・教授 千葉千枝子)