箱根の中心地、強羅。大正8(1919)年に箱根登山鉄道が開通して以来、政財界人や文人たちの別荘地として栄えてきたこの温泉地に、ひときわ深い存在感を放つ旅館がある。「強羅花扇 円かの杜(まどかのもり)」——2014年12月の開業以来、「木と畳と湯」という日本旅館の根源的な魅力を磨き続けながら、水素調理という最先端の環境技術をも取り入れ、進化を止めない一軒だ。


玄関で靴を脱いだ瞬間、その世界は始まる。スリッパはない。木と畳の温もりを足の裏で直に感じながら、廊下を歩き、客室へと向かう。漂う木の香り、重厚な梁、どっしりとしたカウンター——どこを見渡しても、見事な銘木が惜しみなく使われている。それは単なる内装の話ではない。数千年、あるいは数百年という時を生き抜いてきた木が、今もこの場所で「生きている」。そのことを、訪れる者は全身で感じるだろう。

飛騨高山から箱根へ——受け継がれた木の精神
「円かの杜」の母体は、飛騨高山を代表する名旅館「飛騨亭花扇・花扇別邸いいやま」。花扇グループは1971年、高山市内の民宿「いいやま荘(現 別邸いいやま)」の創業からスタートし、1992年に「飛騨亭花扇」、2009年に「強羅花扇」、そして2014年に「円かの杜」を開業。半世紀にわたって地域に根付き、独自の旅館経営を続けてきた。
この宿に足を踏み入れると、飛騨産の杉、楢、檜、そして「神代欅(じんだいけやき)」がふんだんに使われていることに気づく。神代欅とは、今から約2600年前、山形県鳥海山の噴火によって土中に埋もれた欅の銘木を掘り出したもの。希少価値が高く、唯一無二の深みのある色味と欅特有の明瞭な木目が特徴だ。ラウンジ「欅」のカウンター、蔵バー「こだま」のカウンター、レセプション——いたるところにこの神代欅が使われ、数千年という悠久の時間が館内に静かに宿っている。
天井、梁、柱、床。飛騨の宮大工の手によって丁寧に組まれた純和風のインテリアは、木の存在を単なる素材としてではなく、空間の主役として据えている。廊下からすべての客室まで畳が敷き詰められ、木の温もりとともに穏やかな踏み心地が全身を包む。室内に居ながら、漸次的に森とつながっているような感覚——それは、外の木と内の木が共鳴しているからかもしれない。

「円い心」のおもてなし——女将・松坂美智子氏の哲学

「円かの杜」という屋号には、深い意味が込められている。多くのご縁が生まれる旅館でありたい。大切なものを結ぶ旅館でありたい。そして、円(まる)い心でお客さまをおもてなしさせていただきたい——ご縁の「えん」と、まるい「円」を屋号に込めて、この宿は生まれた。
その精神を体現するのが、「飛騨亭花扇」の娘として生まれ、この宿を切り盛りする女将・松坂美智子氏だ。幼少期から飛騨高山の旅館を手伝い、女将の仕事を自然に覚えてきた。朝から晩まで、裏方仕事を含めて一生懸命働く母の姿を見て育った彼女が、今は自らその役を担っている。
「宿でいちばん大切なのは”人”。すなわちスタッフです」と女将は言う。「お客さまのニーズに合わせたおもてなしをしましょうね。それはマニュアル通りではなく、”考えること”が大切ですよ、と話しています」。スタッフが元気で互いの連携が取れていれば、宿の雰囲気は和やかになる。その空気感はそのままお客さまに伝わる——そんな信念のもとで、きめ細やかなおもてなしが日々実践されている。
お茶とお花を長年習い、お作法指導も怠りない。しかし宿の中ではいつも小走りだという。「こんなせわしない姿をお客さまには見せません(笑)」という言葉に、この宿のおもてなしの温度感が滲む。宿に着いたとき、ホッと寛いでいただける空間とおもてなし——それが「円かの杜」が目指す姿だ。
全20室、すべてに源泉掛け流しの露天風呂——木と湯が織りなす客室
「円かの杜」の客室は全20室。すべての客室に源泉掛け流しの露天風呂が備えられている。回廊に沿って配された各客室は、眺望も内装もすべて異なるが、共通しているのは、飛騨の匠によって惜しみなく木が設えられていることだ。
一つとして同じ間取りや眺望がなく、リピーターも味わい異なる部屋を求めるという。玄関をくぐって見上げれば太い梁、神代欅のカウンター——空間に木と畳が薫り、非日常へと誘い込まれる。


スイートルーム(全5室)
ベッドルームと座敷に加え、奥ゆかしい設えが印象的なダイニングルームまでを備えたスイートルームは、ただ館に内包された一室ではなく、それ自体が瀟洒な隠れ家のような存在だ。どこまでも純粋な開放感が味わえるこの空間こそ、「円かの杜」の中に潜む、癒しの水位の最も深い場所である。箱根大文字焼の「大」の字を眺める客室をはじめ、それぞれが個性的な空間を持つ。
デラックスルーム(全7室)
和のエッセンスと洋のテイストが絶妙にブレンドされた、独特の美意識が香るデラックスルーム。すべて50㎡を超える広々とした造りで、7室のうち馬酔木、尾花の2室においては、お食事をお部屋出しにすることも可能。優雅にプライベートな滞在が楽しめる。
スタンダードルーム(全8室)
2名での利用を基本とした、親密感に溢れた8室。ベッドルームに8畳の座敷を備えたタイプと、和ベッドを備えたワンルームタイプが用意されている。花丁子のみ、定員3名での利用も可能だ。心地良く清々しい印象は、すべての部屋に共通している。
チェックインの際には、客室内の漆箱に手作りのお菓子が添えられる。細やかな心遣いが、到着した瞬間から旅の時間を豊かに彩る。



ふたつの自家源泉——強羅の湯が持つ、力強くも柔らかな力
箱根の温泉地は古くから湯治場として知られてきた。七湯・八湯・十七湯・二十湯とも数えられる箱根山塊の温泉群の中でも、最も高い頂から湧出しているのが強羅の湯だ。「円かの杜」では、敷地内にふたつの良質な自家源泉を引いている。ひとつは客室の露天風呂へ、もうひとつは大浴場へと注がれる。

湧き上がっているのは、古代に地中に封じ込められた海水が、約千度のマグマに熱せられて吹き出した高温泉だ。客室の露天風呂にはナトリウム-塩化物泉(pH8.5)、大浴場と露天風呂にはナトリウム-塩化物・硫酸塩・炭酸水素塩泉(pH8.3)があふれる。早雲地獄の爆裂火口から流れる硫酸塩泉に火山性の成分が混合された泉質は、硫酸と炭酸のイオンが豊富なため、入浴後も潤いの余韻を長く残してくれる。
標高約600mに位置し、夏でも冷気を感じる強羅だけに、湯冷めしにくい泉質が人気を呼ぶ。力強くも清く、柔らかな湯に身を預ければ、徐々に心身から雑音は消え去り、この森が奏でる美しい旋律を感じ取れるだろう。
大浴場へと向かう階段は、京都の伏見稲荷をイメージして造られている。箱根寄木細工のルームキーを手に、森に包まれた湯へと向かう道のりもまた、「円かの杜」の旅の一部だ。

広々した内湯が湛える湯は、浸かる癒しだけでなく、湯気が篭るため、呼吸も含めて心地良い安らぎをもたらす。室内のため、雨天に関わらず、存分に自然からの恩恵を満喫できる。


脱衣所に備えるタオルは、日本が世界に誇る「今治タオル」。柔らかな感触と高い吸水性は、湯上がりの肌を包み込むような心地良さをもたらす。シャンプー、コンディショナー、ボディソープには、天然由来にこだわったオーガニックのケア用品を用意。髪本来の艶と肌に優しい洗い上がりが楽しめる。


美食の探求——京会席と水素調理「水円」が生む、唯一無二の食体験
「円かの杜」の食は、単なる宿泊の付帯サービスではない。この宿でしか出会えない美食が、滞在の記憶を深く刻み込む。
夕食はプランに応じて、個室のお食事処やお部屋出しで楽しむ「京会席」、またはカウンター割烹「割烹むげん」での「水円(suien)プラン」が用意されている。
絵巻物のような京会席

本場で修業を重ねた料理人たちが、全国に上質な素材を求め、京料理の精神性を加えて仕上げた京会席。鮮魚、和牛、野菜——それぞれの分野の目利きが選び抜いた食材を取り寄せ、板場で粋を凝らして作り上げる。その彩り、漂う香気、触感、どれもが絶妙だ。冷たい皿は冷たいままに、温かい椀は温かいうちに——細やかな心配りと気配りで、美食のひとときを演出してくれる。料理人の包丁技と味の冴えに、心底驚く一皿一皿がある。
水素調理「水円 suien」——世界初の試みが生む味

2024年より開始した宿泊プラン「水円 suien」では、カウンター割烹「割烹むげん」にて、料理人が目の前で調理する臨場感溢れるディナーが楽しめる。その中心にあるのが、カウンターに備えられた水素コンロだ。
「円かの杜」は、水素ガスを直接燃焼させて調理するコンロを旅館として世界で初めて導入した宿だ。水素は無臭であるため、食材本来の香りが際立つ。高温で蒸し焼きにできることが特徴の水素コンロで調理することで、食材の中がしっとりジューシーに仕上がり、旨みが最大限に引き出される。二酸化炭素を排出しないこの調理法は、美味しさと環境配慮を同時に実現する、新しい旅館のかたちを示している。

食材へのこだわりは徹底している。食通から圧倒的な支持を得る滋賀県草津市の精肉店「サカエヤ」で、肉職人・新保吉伸氏が独自の手法で旨みを追求した熟成肉。土づくりからこだわり、約80種類もの野菜を生産する岩手県北上市の「うるおい春夏秋冬」が育てた、農薬や化学肥料を一切使わない旬の野菜。北海道から高知県大豊町に移住し、限界集落と言われる地で限界を設けずに農業に取り組む「ラッキー農園」の、力強い香りと豊かな風味を持つ生姜。そして徳島県鳴門市の漁師・村公一氏——「伝説のスズキ漁師」と呼ばれる彼が、独自の技術で活き締めなどを施し、極力、魚が海で泳いでいる状態に仕立てて届けてくれる魚。総料理長の目利きによって全国から仕入れられるこれらの厳選食材が、水素コンロの火によって最高の状態へと引き出される。
「割烹むげん」は一日3組限定の相席スタイル。料理人が目の前で調理するライブ感と、厳選素材の滋味が重なる体験は、この宿ならではの時間だ。

お部屋出しと個室食事処——旅館文化の継承
「円かの杜」では、古き良き旅館文化を大切にするという考えから、一部客室でのお部屋出しも守り続けている。11室でお部屋出しが可能で、以前は旅館でのお食事のひとつのかたちとして親しまれてきたこの文化が、今も丁寧に受け継がれている。個室のお食事処は2名から30名まで対応可能で、大切な人とのプライベートな時間を演出する。

朝食は、山の幸と海の幸をバランス良く調理した和食膳。素朴ながら力強い素材の味を存分に活かして仕上げた一膳が、旅の朝に活力を与えてくれる。

深夜の隠れ家——蔵バー「こだま」の魔法

食後は、地階に潜む蔵バー「こだま」へ。重厚な土蔵の扉を開けた先に広がる世界は、「円かの杜」のもうひとつの顔だ。
その名の通り蔵のような店構えは、地下奥にあることも手伝い、まさに隠れ家の趣。空間のシンボルとなるカウンターは、ロビーのラウンジやレセプション同様、神代欅の一枚板。5mに及ぶその長さと存在感は圧巻だ。今なお生命力に溢れるこの木の前に座れば、数千年という時の重さが静かに伝わってくる。
オリジナルカクテルやジャパニーズウイスキーの陶酔を、さらに心地良く演出するのはまるで映画のサウンドトラックのような音楽。宿オリジナルカクテル、ウォッカベースの「円の杜」をはじめ、希少なジャパニーズウイスキーを含む様々な国内外のスピリッツが揃う。キューバ産の5種類のシガーも用意されている。
そして、杯や音の魅力とともに思わず長居してしまうのは、畳の心地良さかもしれない。旅館らしい、日本らしいバー——「こだま」は20時から24時まで(ラストオーダー23時30分)営業している。
人生を変えるかもしれない一杯、一曲。決して大袈裟ではなく、そんな出逢いが待っているかもしれない。

多彩な施設——森に包まれた、くつろぎの時間
ラウンジ「欅」
最初にお客さまをお迎えする空間には、巨大な神代欅のカウンターが鎮座している。チェックイン後、あるいは湯上がりに、ここで珈琲を一杯——時代を超えた邂逅の浪漫に想いを馳せながら過ごす時間が待っている。15時から19時の間はロビーが「Lounge YUAGARI BAR」として姿を変え、湯上がりの一杯を楽しむことができる。


岩盤浴
3名まで利用可能な岩盤浴を2室用意。熱を帯びた石板に身を横たえれば、体の奥から温まる感触が全身に広がる。2室の設定温度はそれぞれ50度と45度。そのときの体調に合わせて選ぶことができる。要予約、料金は45分1,800円。


エステ「MORI」——月の満ち欠けに応じたトリートメント
離れ「MORI」は、一室一名さまだけをお迎えするエステだ。森の中、優しい木洩れ陽を感じながら施術を受けるという体験は、他ではなかなか出会えない。月の引力が潮の満ち引きを起こすことをヒントに生まれた「月の満ち欠けに応じたトリートメント」は、満月の頃には血液やリンパへのアプローチ、新月の頃は余分なものを排出するデトックスというように、経験したことのないリトリートメニューが用意されている。5時30分から23時まで(最終受付22時)利用可能だ。

幅允孝氏による選書
館内には至るところに本棚が配されている。その空間に寄り添った選書は、ブックディレクター・幅允孝氏によるもの。ユーモアにも溢れたセレクションは、湯上がりのひとときや就寝前のひと時を、さらに豊かにしてくれる。

音楽のプロデュース
「円かの杜」の演出のひとつが音楽だ。蔵バー「こだま」、個室のお食事処、一部の客室では、プロデューサー・立川直樹氏が選曲した音楽が流れる。2024年に10周年を迎えた「円かの杜」のために選曲されたジャンルを超えた音楽たちが、非日常の世界へと誘ってくれる。

未来の箱根の森を守るために——環境配慮の取り組み
「円かの杜」が美しい旅の空間であり続けるためには、箱根の森が未来にわたって守られていなければならない。そんな思いから、この宿は環境への取り組みを積極的に進めてきた。
水素調理の導入はその代表的な一例だ。二酸化炭素を排出しない水素コンロを旅館として世界で初めて導入し、美味しさと脱炭素を両立させる試みは、旅館業界に新しい可能性を示した。さらに、バイオで分解する生ごみ処理機の導入、客室内のプラスチック削減など、自分たちにできることからサステナブルな取り組みを積み重ねている。
2025年4月1日からは、予約経路を問わず全ての宿泊者に対して、宿泊時に生じるCO₂排出相当量をカーボン・オフセットする取り組みを全面適用。宿泊するだけで地球温暖化対策に貢献できる仕組みが整えられた。
これらの環境配慮の取り組みは、「SBT認証」(温暖化対策が科学的根拠に基づいていることを国際的に示す認証)の取得によって、その実効性が証明されている。日々、自然に感謝し、いつまでも箱根の森を残し続けるために——「円かの杜」は環境に配慮した旅館運営を続けていく考えだ。


木の声に耳を澄ます宿——「円かの杜」へのいざない
玄関前で回る水車、箱根の峰を映す円窓、土壁に浮かぶ青海波の紋様。円の意匠と和の美学に貫かれた「円かの杜」は、一つとして同じ間取りや眺望がない全20室と、2本の自家源泉、水素調理という最先端の美食、そして飛騨の銘木が織りなす唯一無二の空間で、訪れる人を迎え続ける。
長い時間をかけて土の上で生き抜いてきた木は、「円かの杜」に場を移し、今なお、生き続けている。重厚な木の温もりは、その香りも心地よく、室内に居ながら森とつながっているような感覚を覚えるのは、内外の木と木が共鳴しているからかもしれない。様々な時代を生き抜いてきた木との対話——それが、「円かの杜」という宿の本質的な体験だ。
箱根寄木細工のようにもてなしが精緻に組み合わされたこの宿で、いつしか気持ちが円く和らいでいく。たとえ日常に戻った後も、あの木の香り、湯の温もり、一皿の記憶が、長く、深く、心の中に残り続けるだろう。



強羅花扇 円かの杜(まどかのもり)
所在地:神奈川県足柄下郡箱根町強羅1320-862
TEL:0460-82-4100
開業:2014年12月
客室数:20室(スイートルーム5室/デラックスルーム7室/スタンダードルーム8室)
料金:41,000円〜88,000円(税込、入湯税別)
チェックイン・アウト:15:00/11:00
アクセス:箱根登山鉄道線強羅駅下車、箱根登山ケーブルカーに乗り換え、早雲山駅下車。強羅駅もしくは早雲山駅からの送迎あり(予約不要・要到着後電話)
公式サイト:https://madokanomori.gorahanaougi.com/






