池塘(ちとう)の説明をするネイチャーガイド(尾瀬自然ガイド)の神嵜氏とBグループの参加者たち
淑徳大学は、9月13日に開講した東京都「地域が誇る自然資源を活かした観光経営人材育成講座」で、フィールドワーク「尾瀬かたしなネイチャー体験」を実施した。群馬県片品村の尾瀬ヶ原を1泊2日の行程で訪問。9月20日発のAグループ、9月21日発のBグループで、合計26人が参加した。”天上の楽園”といわれる尾瀬を実際に訪問し、秋の尾瀬ヶ原をネイチャーガイドの説明を受けながら散策した。エコツーリズム、アドベンチャーツーリズム、サステナブルツーリズム(SDGs)について、実地研修で学んだ。
ビジターセンター「尾瀬ぷらり館」で、尾瀬エリアを所有、管理している東京電力の子会社、東京パワーテクノロジー環境事業部尾瀬林業事業所の竹井真吾氏から尾瀬と東京電力との関わり、尾瀬の現状などについての説明を受けた後、間伐体験、尾瀬ヶ原散策などを行った。ネイチャーガイドは同社原子力事業部福島原子力事業所設備保全部土木グループ副長の神嵜岳仁氏らが務めた。

池塘(ちとう)の説明をするネイチャーガイド(尾瀬自然ガイド)の神嵜氏とBグループの参加者たち
本州最大の高層湿原「尾瀬」の魅力と保全

竹井氏
尾瀬国立公園は群馬県、福島県、新潟県、栃木県の4県にまたがり、区域面積は37,222haにおよぶ。東京ドーム約7,900個分の広さだ。2007年に日光国立公園から分離・独立し、全国で29番目の国立公園として誕生した。
「尾瀬は、2000mを超える山々で囲まれた盆地状の地形になっています」と竹井氏は説明する。尾瀬は、最も古い至仏山(2億年以上前に地面が隆起してできたといわれる)と、数万年前に燧ケ岳の噴火により只見川や沼尻川がせき止められて形成された尾瀬ヶ原と尾瀬沼からなる。
尾瀬ヶ原は東西6km、幅2kmに及ぶ本州最大の高層湿原だ。尾瀬ヶ原の中央部では、6000〜7000年という長い年月をかけて、4.5〜5mもの厚い「泥炭層」が堆積し、今の姿となっている。池塘(ちとう)と呼ばれる小さな池が1,600以上も点在していることも特徴だ。
国内では釧路湿原や琵琶湖など53カ所の湿地がラムサール条約(国際的に重要な湿地を保護するための条約)に登録されているが、尾瀬もそのひとつとなっている。
尾瀬は植生の宝庫でもある。シダ植物以上の植物で約900種あるといわれ、「オゼ」と名のつく植物もある。また、哺乳類だけでも30種以上、鳥類は100種以上が確認されている。イワツバメ、ツキノワグマ、オコジョ、ニホンジカなど多くの動物が生息している。
湿原の形成過程
竹井氏は湿原の形成について「尾瀬ヶ原のような広い湿原がどうやってできたと思いますか」と参加者に問いかけた。尾瀬ヶ原は、まず周囲の山々から土砂が流れ込み、川の両端に自然堤防が形成され、堤防に挟まれた水はけの悪い場所が湿地となった。そこで水生植物が繁茂し、この植物は低温のため枯れても完全に腐らず、水中に堆積して「泥炭層」を形成した。
「泥炭層」は、1年間に1mmしか堆積しないため、尾瀬ヶ原の1cmは10年分の積み重ねということになる。この堆積作業が長い年月をかけて低層湿原から高層湿原へと発達させたのだ。
神嵜氏は湿原の説明をさらに掘り下げた。「低層湿原は、泥炭が水の中にひたっている状態です。やがて、低層湿原が高層湿原になる過程の状態である中間湿原を経て、泥炭が積み重なって盛り上がっている高層湿原になります」。尾瀬ヶ原の湿原も、こうした過程で現在の姿になったという。

尾瀬ぷらり館
尾瀬と東京電力のつながり
尾瀬と東京電力の関わりは深い。東京電力は尾瀬国立公園全体の約4割、特別保護地区の約7割の土地を所有している。その出会いは1916年(大正5年)にさかのぼる。
明治から大正にかけての時代は、人々の暮らしに電気が入り始めた頃で、電力需要は急速に高まっていた。当時、発電の中心は水力発電で、その建設を進めることは国を挙げての大きな課題だった。そこで尾瀬の豊富な水を発電に活かそうと、当時の電力会社(利根発電)が尾瀬の群馬県側の土地(群馬県側は当時から私有地、福島・新潟県側は当時も今も国有林)を取得し、1922年(大正11年)には関東水電が水利権を取得した。
しかし、度重なる戦争や震災で大規模な開発が難しかったことや、当時から尾瀬の自然は守るべきという声が強く、政府内も二分されていたことなどから、計画が実現しないまま、尾瀬は1951年(昭和26年)の東京電力設立時に前身の会社から引き継がれた。
神嵜氏は間伐体験の前に参加者に尾瀬の森林について説明した。「片品村ではゼロカーボンパークを登録しています。樹木は成長する際に空気中の二酸化炭素を固定する役割を担っています。成長期にしっかりと管理を行わないと二酸化炭素の固定もうまくいきません。そのため間伐が必要なのです」。

間伐体験
持続可能な自然保護活動
東京電力は、昭和30年代後半から尾瀬の自然保護に力を入れている。当時、尾瀬の美しさに惹かれてハイカーが急増し、木道や公衆トイレなどの設備が整っていなかったため、尾瀬の自然が荒廃していった。東京電力は、失われた自然を守るために尾瀬の自然保護に注力するようになったのだ。
具体的な取り組みとして、湿原を踏み荒らすことなく人と自然が触れ合えるように約20kmにわたる木道を敷設したり、アヤメ平の湿原回復作業などに取り組んでいる。アヤメ平は、1960年代に「天上の楽園」と呼ばれていたが、多くのハイカーによって踏み荒らされてしまった。1970年代から荒れてしまった湿原の手入れに取り組み、現在では美しい湿原が戻ってきている。
東京電力は「美しい尾瀬は国民みんなの財産」と考え、尾瀬の土地の所有者として、約半世紀にわたり自然を守る活動に取り組んできた。

ネイチャーガイド(尾瀬自然ガイド)の神嵜氏(=右)とBグループの参加者
木道整備による自然保護
神嵜氏は尾瀬の木道について詳しく説明した。「尾瀬国立公園内には約65kmの木道がありますが、そのうち約20kmを東京電力が管理しています」。木道は湿原の上に設置され、人々が湿原を直接踏みつけることなく自然を楽しめるようにしている。また、木道は10年前後で架け替えが必要なため、毎年計画的に整備されている。
尾瀬の木道には特徴がある。神嵜氏によると「尾瀬の麓にある尾瀬戸倉山林のカラマツを使っています。カラマツは油分を多く含み、外に放置しても腐りにくいため、木道に適しているのです」。木道には、FSC(Forest Stewardship Council:森林管理協議会)認証材が使われており、その証であるFSCマークの焼き印が押されている。これは、適正な森林管理と木材の流通や加工のプロセスが認証されていることを示している。
また近年は、動物への配慮として木道の一部を高架式にし、野生動物が木道の下を通行できるようにしている取り組みも行われている。

木道の焼き印

新技術を使った木道の架け替え工事の様子
ごみ持ち帰り運動発祥の地
尾瀬は「日本における自然保護活動発祥の地」とも呼ばれている。その理由のひとつが、1972年(昭和47年)に始まった「ごみ持ち帰り運動」だ。
当時、ハイカーの出したごみであふれるごみ箱の処理作業に追われていた尾瀬では、東京電力と関係会社である尾瀬林業(現・東京パワーテクノロジー)の発案で、ごみ箱の撤去が行われた。これが「ごみ持ち帰り運動」の始まりだった。
現在では、ごみの持ち帰りがすっかり定着した尾瀬だが、細かいごみはまだ落ちているという。東京電力では、「ゴミ持ち帰り運動」として自分のペースで尾瀬散策を楽しみながら、目についたごみを拾っていく「グリーンボランティア」を呼びかけている。
閉会式での振り返り

あいさつする平石所長
研修を終えたBグループの閉会式では、東京パワーテクノロジー環境事業部尾瀬林業事業所の平石忠一所長が挨拶した。「のべ3日間ありましたけども、昨日今日はあまり降られず、という風に伺っております。1日目は結構雨が降っていて、参加の方々の行いかなと(笑い)。でも天気がよめないのが本当の尾瀬ですから」と冗談を交えながら、「この尾瀬の体験を周りの方にもお伝えいただき、ぜひ一人でも多くの方が尾瀬に訪れていただけることを願っております」と締めくくった。
淑徳大学による「尾瀬かたしなネイチャー体験」は、参加者に尾瀬の自然の素晴らしさを体感させるとともに、持続可能な観光のあり方について考える機会を提供した。サステナブルツーリズム(SDGs)、アドベンチャーツーリズムといった概念が注目される中、貴重な学びの場となった。参加者たちは、美しい自然を守りながら活用していくための実践的な知識を得て、今後の観光業に活かしていくことだろう。

【同行取材:kankokeizai.com 編集長 江口英一】




