
最近、「熟成肉」が話題に上っていますが、お茶の世界では以前から「熟成茶」の存在感は新茶のそれに勝るとも劣らないものがありました。
童謡の「茶摘」でも歌われている「八十八夜」は、立春から数えて88日目のことで、通常の年は5月2日に当たり、うるう年では5月1日となります。静岡県の平地辺りでは新茶の最盛期ですが、同じ静岡でも山間部や京都の宇治などでは、摘採がようやく始まったばかりで、「走り」の時期と表現した方が適切かもしれません。5月中旬ごろの「九十九夜の茶(造語)の方がうまい」と豪語する生産家もいるくらいです。
「八十八夜の新茶」は昔から不老長寿の妙薬と言われ、珍重されてきましたし、新茶の香りを心待ちにしている、旬に敏感な消費者の期待などを考えると、商機としても、「八十八夜の新茶」は外せません。しかし5月中旬過ぎ、奥深い山で採れる新茶には素晴らしい香気とうま味があります。「九十九夜頃の茶」を押す気持ちも十分分かります。
この香り高い新茶を荒茶のまま低温でひと夏、静かに寝かせ、秋口に仕上げたのが熟成茶です。「荒茶」というのは、「生葉を蒸す、熱を加えながら揉む、乾燥させる」との一次加工工程を経たお茶のことです。水分量は5%程度で長期保存にも耐えます。「蒸す」代わりに「釜で炒(い)って」酸化を止める工程を経るお茶もわずかですがあります。冷蔵技術のなかった頃は、壺(つぼ)に茶を詰め、和紙で何重にも封をし、蔵の奥にしまったり涼しい峠に保管したりしていました。蔵から出し、壺の封を切ることから、「蔵出し茶」「壺切り茶」とも呼ばれます。
新茶の若々しい香りと爽やかなうま味は格別ですが、熟成茶のまろやかで、こくのある風味も負けてはいません。
青々とした初々しい若者と円熟した深みのある大人、そのどちらにも捨て難い魅力があるのと似ているのかもしれません。ところで秋摘みのお茶も少量ながら流通していますが、秋芽を摘んで作るお茶のことで、熟成茶とは別物です。
随分前のことですが、スーパーマーケットで、「ニュージーランド産の春の新茶が日本の秋に届きました」と書かれた大きなポスターが添えられ、新茶の袋が山積みになっているのを見かけたことがあります。南半球に位置し、日本とは真逆の季節を逆手に取ったアピールだったのでしょうが、その後、見かけなくなり、日本人の季節感にはそぐわなかったのかしらと、今でも気にはなっています。