栄華の面影を残す妻入りの街並み
荒海や佐渡に横たふ天の河……『奥の細道』の旅で松尾芭蕉が杖を留めた出雲崎は北国街道の宿場町。佐渡の金銀の陸揚げで幕府直轄の天領となり、西廻航路が開かれ北前船の寄港などで大いに栄えた。盛時には百近くの廻船問屋や商家、旅籠が軒を連ねたという。繁栄の名残は間口が狭く奥行が長い妻入りの木造家屋が約3・6キロも連なる町並みにある。その家並みが途切れて海が開ける一角に、浮御堂風の良寛堂と佐渡を見つめる良寛像があった。
ここは出雲崎の名主・神職を務めた名家、橘屋山本家の屋敷跡で江戸後期の歌人・僧の良寛の生家。芭蕉の遺風を継ぐ俳人でもある父と橘屋の血筋の佐渡生まれの母との間に長男として誕生した良寛(栄蔵)は、和漢の書物に親しむ英明な少年だが、名主の後継ぎ役が全く肌に合わず、18歳の時、地元の光照寺に出家する。
その寺を訪ねてバス停から北国街道を西へ歩いた。父が神官の石井神社、生家の菩提寺・円明院、句碑と銅像が立つ芭蕉園、妻入り会館の先の小路の奥に良寛剃髪の光照寺があった。
備中・円通寺の国仙和尚が越後巡錫でこの寺に立ち寄った折に、良寛は生涯の師と仰ぎ、22歳の時、出雲崎を離れて円通寺に入る。「良寛」の名をもらい、師が亡くなるまでの10余年、傍らで修行した。
そんな経歴や人と業を日本海を見晴らす高台に立つ良寛記念館で学ぶ。諸国行脚を経て39歳で帰郷した出雲崎に父母はなく、生家は没落。だがふるさとへの思い断ちがたく近郷の寺泊、国上山、和島などの草庵に起居。寺を持たず、手毬をしのばせ、托鉢を続けた。無欲恬淡で清貧な暮らしと慈愛深い人柄が多くの人に慕われ、温かな歌を生んだ。
新潟景勝百選1位の記念館前の夕日の丘公園に立つと、正面に日本海と佐渡、右に弥彦山がくっきりと見えた。芭蕉の荒海ではなく、良寛のような穏やかでやさしい海である。
(旅行作家)
●出雲崎町観光協会TEL0258(78)2291