気持ちがほどける温泉旅館は、他に変えがたい場所です。
東京の自宅でこうして原稿を書いていますと、うずうずしてきます。旅支度をして、いまにも出かけてしまいそう。行くなら、どこにしよう…。これまでの旅館での出来事を思い浮かべます。
数年前の初夏に訪ねた海沿いの宿でのこと。太平洋に突き出す岬のすべてが旅館という絶景のロケーションでした。ロビー、食事処、露天風呂からも、どこにいてもさざ波が聞こえてきて、海を近く感じられたのです。特に客室からの眺めがすごかった。私が宿泊した部屋はひとり客用だったので狭かったのですが、その分2方向に大きな窓が配されていて、ベッドに寝ころぶと海の上に浮かんでいるようでした。私はずっと部屋にこもり、空と海の境界線を眺めていました。真っ青な空から、すこしずつ夕景に、しまいには空一面があかね色に染まった風景を目の前にしたときは、一生忘れることがないだろうなぁと思ったものです。
奥日光の森の中の宿でのこと。年の暮れに訪ねたあの日はかなり冷え込んでいました。ヒーターで客室の気温を上げても、どうしても体が温まらずに、暖炉があるラウンジにいました。火って、かげろうのように動くんですよね。その火をじっと見つめているだけで時が過ぎました。木が燃えるパチパチという音は、暖かく感じられるんですね。いまも耳に残っています。暖炉のまわりでアイスクリームが振る舞われたのはうれしかったなぁ。
次に思い浮かぶのは「お祝いの宿」です。誕生日前後に宿泊すると、お願いしなくてもサプライズで祝ってくれます。またチェックインの際には鉄板焼きコーナーでパンケーキを焼いてくれ、アフタヌーンティーサービスにはラウンジでコーヒーとクッキーをいただけますし、夕食前は湯上がり所でビールのサービス。夕食後は地元の芸者さんが舞いを披露してくれます。それら宿のもてなしを全てこなそうと思うと、とっても慌ただしいけれど、楽しいし、面白い!
もちろん、いくつものお風呂がある宿ならば、館内だけでお風呂巡りができます。泉質の異なる温泉があるなら、温泉を入り比べて、自分の肌と相性のいい泉質を探すことだってできます。湯巡りだけであっという間に時間が過ぎてしまった、そんな経験もあります。
これらの思い出の共通点は一つ。1度もテレビをつけずに過ごしたことです。すべて、ひとりで訪ねた宿なんですよ。旅の相棒との会話もなく、テレビにも頼らずに時間を過ごせた宿です。これが宿の力なのかもしれません。こういう宿はまた泊まりたくなりますね。
(温泉エッセイスト)