青木氏
コロナ禍が明け、インバウンドが急回復するなど観光業界がかつての活況を取り戻しつつある。ただ、深刻化する人手不足や諸物価の高騰など問題が山積。難局を乗り切るための知恵と工夫が求められる。ここでは「旅館・ホテルの賢い投資戦略」についてアルファコンサルティング代表取締役の青木康弘氏から寄稿いただいた。
いまが成長を高める機会
売り上げは好調のはずなのに、なぜか楽にならない―最近、多くの旅館・ホテルの経営者から同じ声を聞く。稼働率はコロナ前を上回り、客室単価も過去最高水準で推移している一方で、食材費・人件費・水光熱費は高止まりしている。設備投資は後回しとなり、壊れたところだけ最低限直すという判断に落ち着きがちだ。
しかし、いまは我慢を続ける局面ではなく、次の10年に向けて事業を組み立て直す絶好のタイミングだ。人手不足と物価高騰が続き、従来のやり方を守ること自体がリスクになりつつある。建物や基幹設備、情報システムなどが、一斉に更新期を迎えている。裏を返せば、事業基盤を総点検し、将来の成長力を高める絶好の機会である。
設備投資は本来、単なる現状維持のための支出ではない。老朽化に対応する更新投資、人手不足を踏まえた省力化投資、客単価やリピート率を伸ばす付加価値投資という三つを組み合わせて、自館の将来像を描くための手段である。この投資でオペレーションがどう変わるのか、損益計算書のどの勘定科目に効くのかが見えたとき、設備投資は守りから攻めの手段へと変わる。
まず見直したいのが、日常の運営方法である。予約サイトや自社HP、電話予約はサイトコントローラーで一元管理しているものの、その情報を紙に印刷して現場に回し、客室の割り付けを手書きで修正している例はいまだに少なくない。料金設定も担当者の勘と経験に依存しがちである。調理場や清掃係への共有は紙の帳票を回覧し、シフトの引き継ぎも口頭やノートに頼る。設備の点検記録も外注業者の報告書に分散し、どの設備にリスクがあるのかをその場で把握しづらい―こうした運営実態は多くの旅館・ホテルで見られるが、改善の余地は大きい。予約・顧客情報・料金・客室状態・設備点検を一つの仕組みに集約し、誰もが同じ画面で確認できるようになれば、「特定の人のがんばり頼みの宿」から「誰が担当しても高い成果が出せる宿」へ一歩近づく。
館内の空調・給湯・給排水など基幹設備への投資やメンテナンスも、将来の収益力を高める攻めの一手として捉えたい。客室空調やボイラー、大浴場のろ過ポンプが止まってから交換し、その間の売止とクレーム対応に追われるのか。あるいは故障の兆候を早めにとらえ、計画的に更新してトラブルが起きない状態を当たり前にしておくのか。同じ修繕費でも、後者には売止ロス削減とスタッフのストレス軽減というメリットがついてくる。空調や給湯の効率を高め、水光熱費を1~2%でも下げられれば、その分が利益拡大施策の原資になる。
顧客の体験価値やブランドを高める投資は、経営者に加えて現場の責任者やスタッフを含めた宿づくりに携わる人の発想が生きる領域である。インバウンドや連泊・中長期ステイ、ワーケーション、一人旅、イベント参加を目的に訪れるファン層など、どの層をどの程度取り込むのか。土地柄や風土、歴史や食文化といった地域の物語を、仏ワインの世界でいうテロワールのように宿の個性としてどう組み込むのか。将来像が明確になるほど、客室やロビー、浴場、共用スペース、Wi―Fi環境、多言語対応などの設備投資は、狙いを定めた打ち手として機能する。
では、どこから動き出せばよいか。第一歩は、自館のボトルネックを客観的に洗い出すことである。直近3年分の決算書と稼働率、客室単価、口コミ評価、従業員アンケートなどを重ね合わせ、利益の伸びを抑えている要因は何かを確認する。人件費なのか、水光熱費なのか、売止の多さなのか、宿泊単価の頭打ちなのか。それが見えれば、どの設備投資が何年で回収できそうかをおおまかに試算し、優先順位を決められる。
国や自治体の補助金を活用する場面でも、この整理はそのまま生きる。中小企業省力化投資補助金では、設備導入前後の作業時間の改善を数値で示す必要がある。現状の課題、この投資で運営がどう変わるのか、業務時間を何%削減し、数年後に労働生産性をどこまで高められるのか―ここまで説明できれば、生産性と競争力を高める投資として評価されやすい。
この記事を読んでくれている方の中には、次世代経営者も多いだろう。子どもの頃や若手時代に、親世代・先代がバブル期の世相と向き合いながら経営を続けてきた姿を、どこかで見てきたはずだ。その後の長い低迷期を経て、設備に極力お金をかけないことが安全だという感覚が自然と受け継がれてきた面がある。
しかし、何もしないことが最も安全だった時代は終わりつつある。老朽化した建物や設備、人手不足を前提としていないオペレーション、高止まりした水光熱費を抱えたままでは、気づかぬうちに競争力が削られていく。設備投資は、将来どのような姿で宿を次の世代に渡すのかを経営者が自らの意思で選ぶ行為である。運営基盤、コスト構造、顧客体験という三つの視点から自館を点検し、取り組みやすいところから一つずつ取り組んでいこう。その小さな決断の積み重ねが、やがて周辺の宿とのはっきりとした差となって表れてくるはずだ。

青木氏




