福島氏
フロント研修で、ささやかな心配りについて話をしている際、ある中堅社員が、突然、「そんなことはやったことはないし、聞いたことも、見たこともない。それがマナーだなんて初めて聞いた」と言い放った。
話題は、領収書の宛名書きについてである。
直筆で宛名を書くときは、あらかじめ印刷されている「様」の文字を二重線で消してから、改めて、自身の手で「様」を書き添えるのが接客の基本である。様まで書かずに、相手の名前を書いただけでは呼び捨てにしている感がなきにしもあらず。「心をこめて書きました」という思いは伝わらない。
宛名欄に印刷された「様」は、あくまでそこが「名前を書く位置であること」を示しているに過ぎない。
たとえば、日本郵便が販売しているレターパック。宛名スペースにはご多分に漏れず「様」が印刷されているが、実は、差出人名の欄にも「様」が印刷してある。日本郵便としては、差出人も重要顧客なのだから「様」を印刷すべきという意図があるのかもしれない。同社では受取人も差出人も同列の顧客として扱っており、郵便物を出す差出人への特別な配慮はない。
そこで、マナーを心得た大人は、差出人である「自分の名前」に様をつけて出すのは失礼と考え、宛名の様だけではなく、差出人欄に印刷された「様」の文字も二重線で消してから投函(とうかん)するのである。
一方で、「様」を消すことが、大人のマナー、常識とは言うものの、「様を消す手間が面倒くさい」「印刷してある様を消してまで、様を手書きにする必要はない」と、あえて「様」を消さない人もいる。様を消さないことが常態化すれば、次第に、印刷された「様」自体が気にならなくなり、差出人名に「様」がついていようが、受取人名に「様」の文字が直筆で書き添えられていなかろうが、「そういうものだから」と納得してしまうようになるだろう。
これは寛容なのか、それとも、気遣いの逓減なのか。
そもそも宛名欄に「様」が印刷されていなければ宛名のあとに「様」を手書きしていたはずだ。様を書く手間を省くことと引き換えに手に入れたものが、長い年月をかけて築き上げてきた文化風習の消滅というのでは、何ともやるせない。手書きの宛名だからこそ「様」の一文字を添えることで、感謝の気持ちを伝えることができるのである。
ところで、最近では、メールの宛名は、役職名と名前、名前と敬称の間を半角ずつ空けるのが一般的なビジネスマナーといわれているらしい。
役職名と姓の間のスペースは視認性を考えれば理解できるが、名前と敬称の間を空ける必要性についてはいささか疑問が残る。正直言えば、違和感しかない。
「様」が名前の一部として誤認されるとは考えにくい。また、DMの宛名などでよく見るような「様」の前の半角スペースは、あらかじめ用意してあった「様」表記に機械的に名前を入力したような、とってつけた印象がある。このような記号化された宛名からは、一切、敬意は感じられない。
前述の手書き同様、宛名と敬称の距離が離れれば離れるほど敬意は薄れていく。よって、メールの宛名でも、姓と様の間を空けずに書くことで、敬意と気持ちを伝えることが可能になる。心は見えなくとも、心配りは見えるものなのである。
福島 規子(ふくしま・のりこ)九州国際大学教授・博士(観光学)、オフィスヴァルト・サービスコンサルタント。




