
1948年(昭和23年)生まれの私は今、このコラムを執筆中に77歳を迎えた。世間でよくいわれる喜寿であるが、超高齢化のわが国では普通のことで喜ばしいことほぎはない。
旅館業界でも世代交代が進み、私の業界活動の現場であった全旅連でも福岡県理事長の井上善博氏が会長になられ、さまざまな改革がなされ躍進していて、われわれが全旅連のかじ取りをやっていた時代よりもはるかにグローバルで高度な政治力も携えて、全旅連青年部やJKK女性経営者の会とともに年ごとにパワーアップされ頼もしい限りである。
ここで僭越(せんえつ)で恐縮ながら業界の後輩の方々へエールを送る意味で【私の人生訓】と題して、私の父の遺訓や自己体験の中からのさまざまな言葉について描いてみたい。
まず、父小原嘉登次の遺訓であるが、何かにつけて言われ叱られ続けてきた言葉は、まず【自分のやることに信念をもて、こうと決めたら徹底してやり抜け!】という言葉だ。これは「人間が一度口に出したことは必ずやり遂げろ! 信念=不動の価値観をもって物事にあたり言動を貫いて結果をだせ!」と言われていたのだと思う。
以上のように文字にすれば何とかできそうであるが、現実は簡単ではない。例えば、私は「自分の原点は生まれ育った嬉野温泉の街と、旅館業である。これの繁栄と発展のためには身を賭してでも闘う!」と強く感じていた。
この考えは一つの信念である。嬉野温泉は太平洋戦争後は良質で高温度の温泉を基軸に、多くの温泉地がそうであったように歓楽的な観光地として発展してきた。現在でこそ“観光立国”とか“インバウンドの経済効果絶大”とか言われるが、昭和の高度経済成長期は重厚長大型の産業が主役で観光や旅館業は”遊びごと”との蔑視に似た見方があり、決して主役の業種や産業ではなかった。
また男性が団体で歓楽的な魅力を目的にする旅行の予約を受ける際などに、自分の愛する原点の故郷と、命がけの旅館業がそのような色眼鏡で見られているのを耐えられぬように感じる中で、このままではいけない、なんとかイメージチェンジをしなければ!と思うことが多々あった。
ここに新たな信念が生まれる。【歓楽から文化、歴史、スポーツ、イベント、コンベンションの多様な温泉観光地をつくり上げたい!】、また【宿は地方の歴史館・文化館たれ!】と。
前段は、温泉を手のひらにして、<文化・歴史の親指>、<スポーツの人さし指>、<イベントの中指>、<コンベンションの薬指>、そして従来の<歓楽の小指>の5本指で県や市町村の行政におんぶに抱っこで寄りかかるのではなく、自らの手で民間の手で地域の観光開発を行うぞ!との強い思い=信念が生まれた。
この思いを「5本指の観光開発論」として、各地で講演し、数カ所の大学で講義も行った。反省すべきは調子に乗りすぎた自分自身の言動であって、それは約40年前のことで折からのバブル経済の一時的な波に乗ってしまったことだ。5本指の一つの文化・歴史の里の歴史的なテーマパーク「肥前夢街道」はリゾート法とバブル経済の崩壊であえなく10年後には破綻した。
一方で全旅連青年部長に就任した約40年前に、仲間の青年部員に訴えた【宿は地域の文化館・歴史観】のフレーズであるが、もう少し詳しく言えば「宿は泊・食・浴の提供のみならず」ということが前付けされる。要するに「旅館ホテルは宿泊し、料理を食べてお風呂に入るだけの機能性が全てではないだろう! それに加えて、地元の歴史や文化や産業、人情などを総合して感じることのできる館であるべきだ」との私の信念でもある。
(元全旅連会長)