
講演するホテル観洋の阿部女将
日本旅館国際女将会(長坂正惠会長=下呂温泉しょうげつ)は6月16日、令和7年度総会をホテル椿山荘東京で開いた。同会理事で南三陸ホテル観洋の女将、阿部憲子氏が「3.11からの記憶」と題して講演。東日本大震災発生以来、ホテルスタッフと地元住民、ボランティアの方々と共に歩んできた南三陸ホテル観洋の記録を紹介した。阿部女将は「皆さんの旅館で、将来の防災・減災への取り組みに役立ててほしい」と話した。
「避難所」から「希望の拠点」へと変わった宿
1000年に一度とも言われる東日本大震災から15年。南三陸ホテル観洋は震災直後から地域に寄り添い続けてきた。阿部女将は「高台に建つホテルだったからこそ、多くの命を守ることができた」と当時を振り返る。
震災当日、阿部女将はロビーでお客様と打ち合わせをしていた時に大きな揺れを感じた。すぐに客を外の駐車場に避難させ、対策本部を立ち上げた。さらに高台にある託児施設「マリンパル」への二次避難を素早く判断。「スタッフから『なぜすぐに避難場所を変えたのか』と聞かれましたが、これは中越地震に遭遇した旅館の方から話を聞いていたから。先輩の経験が活きた瞬間でした」と説明した。
創業者の知恵が守った宿の基礎
南三陸ホテル観洋は、なぜ津波から生き残ることができたのか。その秘密は創業者である阿部女将の父の経験にあった。
「父は昭和35年のチリ地震津波で被災し、身一つになってしまいました。その後、気仙沼市で水産会社を起こし、事業が安定してから『仕入れた魚を提供できる宿泊産業が面白そうだ』と考えたのです」
重要だったのは立地選定だった。「多くの人にこのロケーションの良さを見てもらいたいが、安全第一」という思いから、高台の固い岩盤の上に宿を建てた。さらに機械室も通常は1階や地下に設置するところを3階に配置するなど、津波を想定した設計だった。そのおかげで建物は2階まで津波に襲われたものの、土台はしっかり残った。
「震災直後、警察官が『最強の施設だ』と言いました。なぜなら5階建ての建物が電気が止まっているだけで、館内のグラスが1個も割れていなかったからです」
600人の避難者を支えた”食”と”情報”
震災の翌日には、避難してきた住民を含め600名以上がホテルに滞在することになった。「電気も水も止まり、橋が流されて孤立状態でした。限られた物資の中で、『おにぎりが十分なければ半分ずつにして配る』と譲り合いの精神を呼びかけました」
阿部女将が特に重視したのが「食」だった。「災害時こそ食事が大事。組織でも家庭でも、食事が不十分だと不満が募ったり、関係性が難しくなったりします」。厨房の責任者には震災当日、1週間分の献立を立てるよう指示したという。
ホテルでは建物が残ったことを活かし、情報発信の拠点としても機能した。「家を失うということは固定電話も失うこと。足で情報を稼ぐしかありませんでした」。ホテルのロビーには安否情報や通行可能な道路の情報を掲示。「単なる旅館業ではなくなっていった」と振り返る。
水の確保に奔走した100日
「水は4ヶ月、電気は2ヶ月止まったんです」と阿部女将。「電気は日が昇れば起き、沈めば寝るだけ。でも水がないとお薬も飲めない、トイレも使えない、お風呂にも入れない」
給水車が来ても、1日の水の必要量300トンに対して80トンしか確保できなかった。インターネットが使えるようになって2ヶ月後、若いスタッフが「海水を真水に変える淡水化システムがある」と発見。しかし、メーカーからは「民間会社には支援できない」と断られた。
「町内のどこかに設置してもらえないか交渉しましたが、『誰が立ち会うのか、誰が責任を取るのか』と話が進まない。『取れる責任は何でも取ります』と粘り強く交渉し、ようやく2社から淡水化システムを支援してもらいました」
このシステムが6月末に稼働し、ようやくトイレが使え、入浴回数も増やせるようになった。
「ATMも設置交渉は難航しました。何人の家があるのか、何人が住んでいるのか、ホテル前を何人が通行するのかと聞かれ、6社目でようやく設置が決まりました。災害時は従来のルールでは解決できないことを思い知らされました」
被災地における交流人口の拡大戦略
震災から1ヶ月後、水道が復旧していない中でもレストランを開業したことで地域に活気が戻り始めた。「正直、街の中は土台だけのグレーの世界。お客様は来てくれるだろうかとヒヤヒヤしました」
しかし、高校卒業したばかりの若者が自主的に道端で看板を掲げたことがきっかけで、通りかかる車がUターンしてレストランに入るようになった。「若い力も欠かせない。もちろん年長者も大事です。戦争の大変な時期を過ごした方たちは生きる知恵、強さをお持ちでした」
「南三陸キラキラ丼」で食による地域活性化
「震災前に食で町おこしをしようと『南三陸キラキラ丼』を発案していました」と阿部女将。丼ぶりなら小さな食堂も参加しやすいと考え、海のキラキラ、太陽のキラキラ、人々の表情のキラキラを表現する名前をつけた。2009年の後半から始まり、1年で好評を博していたが、すべての店舗が被災。ホテル観洋では水がない時期からメニューを復活させ、後に仮設商店街の「起爆剤」となった。
「南三陸てん店まっぷ」で離れた店舗を結ぶ
震災から2年後の2013年、仮設商店街ができる一方で、早く再開した商店は場所の良くない山の方や路地裏に店を構えるしかなかった。「商店街はお客様が多いのに、場所の悪いところに再開した店はお客様が来ない。格差が生まれていました」
そこで阿部女将が考案したのが「南三陸てん店まっぷ」。町外から来た人だけでなく、地元住民にも再開した店の情報を知らせる効果があった。「被災して廃業した店も多く、再開の知らせを広告で出す余裕もない中、このマップが役立ちました」
リピーターを増やすためにスタンプラリー形式にしたことで、「1個のハンコは初めて来た人、いっぱいハンコがある人はよくこの街に来ている」という会話のきっかけになり、コミュニケーションが生まれた。このマップがきっかけでビジネスも生まれ、ミシンのワークショップから一般主婦が職業作家になるケースもあったという。
「語り部バス」で災害の記憶を伝承
阿部女将が特に力を入れた取り組みが「語り部バス」だ。これは道案内から始まった。「信号もガードレールもない中、道案内をしながら『この建物ではこういう出来事があった』と伝えていたら、それが語り部の取り組みだと自覚するようになりました」
南三陸町は震災で人口が大幅に減少。交流人口の増加が急務だった。「一般的に旅行は楽しいところ、ワクワクするところに行きたいもの。でもそのキーワードを一切失った中で、この取り組みは手応えがありました」
リピーターも生まれやすく、「2週間後」「翌月」と早い段階で再訪する人が多かった。「一人の人が体験すると、今度は息子と、部下と、違うグループで訪れてくれる。災害があっても宿泊産業は生きる道がある」と手応えを感じたという。
「語り部活動がきっかけで、これまでに48万人の方が利用されました。子どもたちにも学んでもらうことが大事です」と阿部女将。語り部バスの取り組みは2017年、第3回ジャパン・ツーリズム・アワード大賞を受賞した。
災害からの「生きる力」を次世代へ
震災から2年後、阿部女将はある気づきを得た。「新しい人がホテルを訪れると『ここは初めから野原だったのですか』と聞かれるようになりました。被災物が解体されるほど、起こったことが分かりにくくなっていく」
そこで震災遺構の保存にも関わるようになった。「これは町内にあった会館で、スタッフの判断が良く、高齢者327名とワンちゃん2匹を救った場所です」
阿部女将の実家も特別な意味を持っていた。2006年に後付けで設置した外付け階段と屋上で、震災当日30人の命が救われたのだ。「妊婦の方も一人、足の不自由な人も3人含まれて、後に妊婦の方は2人の赤ちゃんを産みました」
実家がグラウンドになると聞いて衝撃を受けた阿部女将は、「引き屋」という手法で家を移設することを決断。「縦に分断、横に分断して引き屋をするこのレベルの作業は全国で6社しかできないと言われました」
YouTubeでは「命の螺旋階段」と名付けられた動画が公開され、記録として残されている。「初めてここに来た人は『初めからここにあったのでしょう』としか思わない。記録を残すことも大事です」
「自助・共助」の大切さを伝える
大勢の住民と過ごす中で、阿部女将が気づいたのは「親の教え」の重要性だった。「昭和35年のチリ地震津波の経験をきちんと子や孫に伝えていた家庭は、適切に避難できていました」
一方で意外な発見もあった。「海の見えない地区の人たちに犠牲者が多かったんです。なぜ海が見えない内陸部で犠牲者が多いのかと地域住民も驚きました。危険地域の人たちは『おばあちゃんから聞かされていた』『親父から言われていた』と避難行動が的確だったのです」
「大震災後に自助・共助・公助の大切さがよく言われますが、特に自助・共助が重要。『備えていないことはできない』という教訓を伝えていきたいです」
寺子屋とそろばん教室で子どもたちの未来を支える
避難所生活では、子どもを持つ家庭への支援も重視した。「子どもたちが転校すると馴染むのが早く、戻ってこなくなる。復興の担い手を失わないために子どものいる家庭を積極的に受け入れました」
しかし親からは「子どもの将来が心配で悔しい」という声が多く聞かれた。そこで館内に勉強スペースを設け、「寺子屋」を開始。大学生や被災したピアノ教室の先生の協力を得て学習支援を行った。
「寺子屋は仮設住宅ができて約2年で終わりましたが、そろばん教室は今も続いています。全国大会4位に2人入ったり、暗算名人が4人育ったりと、予想以上の成果が出ています」
「引きこもり防止」のためのイベント戦略
二次避難所となったホテルでは、避難者の「引きこもり防止」も課題だった。「部屋から無理やり引っ張り出すことはできない。そこで音楽コンサート、お芝居、落語会、絵本の読み聞かせ、ミシン掛け教室、編み物教室など様々なイベントを企画しました」
これにより「今日はいい歌が聴けるらしい」「今日はミシン掛け教室がある」と外出のきっかけが生まれ、仲間づくりや笑顔の増加につながった。あるNPO法人が2年間で135回のイベントを開催したと発表して拍手喝采を浴びた時、自分たちは600回以上開催していたことに気づいたという。
「新しいコミュニティの始まりを意識しました。災害でバラバラになった人々をつなぎ直す役割を担えたと思います」
全国の語り部とのネットワーク構築
震災から5年後の2016年、阿部女将は「全国語り部シンポジウム」を開催。阪神・淡路大震災の語り部や北淡震災記念公園の関係者など、先輩災害地域の語り部とのネットワークを構築した。
「全国には240年前のことを伝えている地域、160年前のことを語り継いでいる地域がある。そういう方々は顔も見たことのないご先祖様の話を伝えている。私たちのところに来ると『爪痕ってこんな現状なんですね、当事者ってこんな気持ちなんですね』とお互いに刺激になります」
阿部女将はこのシンポジウムを毎年継続し、資料交換や学び合いの場として発展させている。「遠くの友は大事です。被災している人は被災していない人との関係性も重要。ネットワークの構築が大切だと実感しています」
コロナ禍でも「諦めない」姿勢で新たな挑戦
東日本大震災からの復興途上で迎えた新型コロナウイルス。「2つの国難を抱えることになりましたが、諦めない気持ちが大事だと分かってきました」
コロナ禍では地元で使える金券「地盛り券」を作ったり、突然休校になった子どもたちのために「おうち風呂コンクール」を企画。「おもとより家庭で笑顔が生まれた」「学校の先生からもいい企画だと言われた」と手応えを感じた。
また、すぐに宿泊客を呼び込むことができない中、「前売りチケット」の販売も行った。「みやぎお宿エール券」と名付けた取り組みは、1万円で1万3000円分のサービスを受けられるプレミアム企画。「お客様から温かいメッセージが添えられ、スタッフの支えになりました」
最初は17施設からスタートした企画だったが、「電話が全然鳴らない事務所の状況が、この企画で回線がフル稼働するほど変わった」と周囲を驚かせたという。
震災の教訓が導いた瞬時の判断
講演の最後に阿部女将は、自身が地震直後に適切な避難指示を出せた理由を明かした。「実は避難訓練で一度もやったことがなかったのに、なぜすぐに避難場所を変更する指示を出せたのか。それは中越地震に遭遇した旅館の方から話を聞いていたからです」
「その方は『避難してください』と外の駐車場に誘導したものの、解除の放送がなかなか流れず、いつ館内に戻していいか迷った経験を話してくれました。その話を思い出し、寒い中での屋外避難を避け、直営の託児施設に速やかに移動したのです」
阿部女将は「災害100人いれば100通りの体験がある」としながらも、「先輩の経験を聞いておくことが、いざという時の判断材料になる」と強調した。
「災害に遭遇した私が、皆さんの防災・減災の備えにお役立ていただければ幸いです」と締めくくった。
女将の言葉
「『千年に一度の災害は、千年に一度の学びの場』であり、町を元気にするためにも、皆様にお越しいただければと存じます。今後もご縁を大切にしながら、新しい地域づくりに向け、みんなで力を合わせて参ります」(南三陸ホテル観洋 女将 阿部憲子)
長坂会長(左)と阿部理事
日本旅館国際女将会(総会出席メンバーとアドバイザーら)
【kankokeizai編集長・日本旅館国際女将会事務局 江口英一】