
「そろそろ、海外に行けないのがつらくなってきたよね」というのが、最近、仕事仲間の間であいさつのように交わされる会話だ。Go Toトラベルキャンペーンが東京発着も対象となり、日本の旅は盛り上がりを見せているが、それだけに無性に海外が恋しくなる。多くの方たちの工夫によって、ヴァーチャルツアーで、世界の風景や音はリアルに体験できるようになったが、どうしてもかなえられないのが「香り」と「味」である。以前、技術的にはすでに家庭用テレビでも香りを出すことができるようになっていると聞いたことがあるが、人工的なものと天然の香りは雲泥の差がある。唯一、脳と直結している器官でもあるので、偽物を本能が嗅ぎ分けてしまうのだろう。
私にとって、この夏、恋しかったのは“桃”の香りである。それなら、日本でもあるではないかといわれそうだが、ただの桃ではない。平たい桃だ。
「ヨーロッパでは、6、7月になるとこの桃が出回るのよ。日本では見ないものかもね。甘くておいしいから、見つけたら、絶対食べなさい」。15年ほど前に、イタリアに暮らす先輩から教えてもらって以来、私にとっては夏を告げる桃として、香り、味ともに1年の風物詩として欠かせないものとなった。見たことがない方は信じられないかもしれないが、上からギュッと意図的につぶしたように平たい。決して美しい姿ではない。それでも、皮をむいてかぶりつくと、高貴な香りとともにみずみずしく、上品な甘さの桃の味が口福を誘う。
バルト3国を旅した時にも、平桃はスーパーで売られていた。ロシアでは、気候のせいか9月になっても店頭に並んでいて、こっそりとスーツケースに入れて、日本に持ち込んだのも1度や2度ではない。それほど親しんだ味が、今年は手に入らないことが分かった瞬間、ますます食いしん坊心に火がついた。さまざまなキーワードで検索した結果、ありました。平桃が日本でも! 「蟠桃」と書いて、ばんとうと読むそうで、ヨーロッパ産より、さらにいびつで不格好。中国産で、中国の伝説に残る仙人の家にある、3千年に一度開花し結実するという不老長寿の桃の名前に由来した名前だそうだ。孫悟空も食べたといわれており、日本には明治初期に伝来し、密かに栽培が続けられているとのこと。
5月に注文し、9月上旬に待ちに待った桃が到着。今年は、長雨が続き、非常に不作だそうだ。そんな中、わが家に届いた愛おしい桃を熟するまでしばらく置いておき、つい先日いただいた。少し青味が残り、後味に爽やかな梅の味が広がる、初めて味わう平桃だった。いつもとはひと味異なる“夏の味覚”。こんな発見も悪くない。