【道標 経営のヒント 210】ワインの染みとココロの染み コンテンツキュレーター 小倉理加


 実は、これを書くかどうか数カ月悩んだ。ただ、サービス業、それも日本が世界に誇る”おもてなし”を守っている方々に、自分たちは大丈夫か?と振り返ってほしいという願いを込めて書くことにした。そのため、具体的なホテル名は明かさず、誰もが知る老舗であるとだけお伝えしておこう。

 5年ぶりの滞在だった。前回の体験が素晴らしかっただけに、今回は母と一緒に出かけることにした。スタッフが随分若返った印象はあっても、総合的に以前のまま。

 それが起こったのは、ディナーのレストランでのことだった。担当は、若い女性。にこりともしない緊張した面持ちやぎこちない手つきから、不慣れな新人だったと思う。まず、グラスの赤ワインをオーダーしたところ、彼女は勢い余ってワインをこぼしてしまったのだ。母のグラスの下の白いクロスが真っ赤に染まっていた。彼女は、静かに「失礼しました」と言って、ボトルを持って一度バックヤードへと引き上げた。その時点で、若干の違和感を覚えたが、少ししてナフキンと再度ボトルを抱えて戻ってきたのを見て、待たされはしたが、別の席に移してくれるか、クロスを変えてくれるのだろうと思っていた。

 ところが、彼女がとった行動は、まだ濡れて間もないシミの上に申し訳程度にナフキンを敷き、置かれたままのグラスを移動させ、ワインを注ぎ始めたのだ。見るに見かねて「きれいな席に変えてください」と少し声を荒げたところ、今まで成り行きを黙って見ていた上司と思しき女性が飛んできて、すぐに隣の席へと案内してくれた。しかし、そこから先は、食事の味もよく分からなかった。

 どう見ても若い彼女にとっては祖母にあたるような女性が、これから1時間を過ごすディナーの席を汚れたままでよしとした感覚に末恐ろしさを感じたのだ。広いレストランは3席ほどしか埋まっていなかったので、案内する席がなかったわけではない。加えて、文句を言うまでその対応を許した上司の心も計りかねた。のんきな母は、「私が粗相したみたいだわ」と笑ったが、私の心には不安が黒いシミのように広がった。

 失敗したこと自体は全く気にもならないし、今までもこういう類の経験はたくさんある。そのたびに、みな涙を浮かべんばかりに謝り、ボトルを下げるより先に、まず違うテーブルへ案内するのが常だった。ホテルやレストランの格は関係ない。その対応の素晴らしさ、心持ちに感動してファンになることもある。

 現在、ラグビーのワールドカップでも、世界中から予想以上の観光客が訪れ、あとは来年の夏までその数は増えるばかりの日本。私と同じ思い出を持ち帰るような客人が、出ないことを祈ってやまない。

 
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