【道標 経営のヒント 190】転機こそ、最高にぜいたくなおもてなし コンテンツキュレーター 小倉理加


 札幌を旅行中、偶然見つけたジャズピアニストの小曽根真さんのコンサート。東京ならすぐ完売するであろうチケットも幸運なことに当日券が残っていた。エンターテイナーである小曽根さんの舞台は、素敵な演奏はもちろん巧みな話術で盛り上がり、瞬く間に心地よい時間は過ぎていった。

 ところが、終盤にさしかかった頃、あろうことか誰かの携帯の着信音がホール全体に高らかに鳴り響いた。一瞬凍りつく場。それまでの時間が台無しになるのではないかと思われた瞬間、なんと小曽根さんが今しがた自身の演奏を妨げた着信音をピアノで再現して見せたのだ。途端に観客席から沸いた大爆笑と拍手喝さい。張りつめた空気が、出演者の機転によって記憶に残るエピソードになったのだ。帰りはホテルへの足取りも軽く、言葉では言い表せない温かな気持ちに包まれた。

 このエピソードを思い出す時、必ず一緒に脳裏に蘇る体験がある。オリエント急行に乗車した時のことだ。オリエント急行では、朝食は専任のバトラーが各キャビンまで運んでくれるのだが、毎朝オレンジジュースが注がれて届くグラスをことのほか気に入ってしまった。ふっくらとした胴が持ちやすく、ストライプに刻まれたエッジングがモダンでなんとか日本へ持ち帰りたいと考えていた。

 ブティックでは販売されていなかったので、最終日に意を決してバトラー氏に購入したい旨を告げた。私はホテルなどで気に入ったものに出合うと、よく「これ、いただきたいのですが…」と切り出すので有名だが、たいてい喜んで販売してくれる。インドのリゾートなどでは、あまりにも気に入り何枚も購入した非売品の皿が、翌日にはリゾートのブティックに並んでいたことがあった。

 しかし、オリエント急行では勝手が違った。バトラー氏が上の人にかけ合ってくれたのだが、どうしてもゲストに販売することができないという。ますます思いは募るが、諦めるしかない。

 最後の朝食を、お気に入りのグラスとともに時間をかけて味わい、帰り支度を整えた。すると降車間際に、そのバトラー氏が訪ねてきたのだ。手には小さな新聞紙の包み紙を携えて。「どうぞ、これを持っていってください。お気に入りのグラスです」とはにかんだ笑顔とともに渡された。お金を払うとしつこく申し出たところ、「僕が割ってしまったことにするから大丈夫」と返って来た。

 彼のとっさの機転で宝物はわが家へやって来た。目にするたびに、あの小曽根さんが弾いた着信メロディとともに、上質な映画を鑑た後のような豊かな気持ちが鮮やかに蘇る。そしてどんな高級スイートへ滞在した思い出よりも、深い幸福感に包まれるのだ。

 
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