
前号に続き、老舗ロシア料理店「浅草マノス」について。同店のメニューでもう一つご紹介したいのが、「シャリアピンステーキ」。ソース代わりに、みじん切りの炒め玉ネギが肉全体を覆った、あのステーキだ。
普通なら全面茶色のハズなのだが、同店では緑色のソースがかかっていて、見た目がチョット違う。いや待てよ、そもそもシャリアピンステーキのスタンダードって…?というワケで、まずは発祥について。
実はこの料理、帝国ホテル生まれで、その誕生に関わった「シャリアピン」という人物の名を冠したものだと記憶にあったので、日本を代表する高級ホテルの由緒あるメニューが、なぜ下町のロシア料理店で提供されているのか?と思い調べてみたところ、シャリアピンさん、つまりフョードル・イワノヴィッチ・シャリアピン氏は、何とロシア人! 要するに、ロシアつながりだったのだ。
名高いオペラ歌手として活躍した同氏は、抜群の声量を誇っていた。そのパワーの源は大好物の牛肉料理だったが、公演のため1934年に来日した折は歯の調子が悪く、軟らかい物しか食べられなかった。
そこで、滞在先帝国ホテルの「ニューグリル」筒井福夫料理長が考案したのが、牛肉を叩いてから、おろした玉ネギに漬け込む調理法。肉の繊維を断ち切り、玉ネギに含まれるたんぱく質分解酵素でダブル攻撃し、肉を軟らかくしたのだ。
別にみじん切りの玉ネギをキツネ色になるまで炒めておき、肉を焼く際に出た肉汁と併せ、ソースとして肉に載せると、玉ネギの甘味と牛肉のうま味が見事に調和し、まさに口福の味に。
シャリアピン氏がムチャクチャお気に召したのは、想像に難くない。その後1936年に再び来日、同ホテルに滞在した際、同氏のお墨付きを得て「シャリアピンステーキ」を正式なメニュー名としたそうだ。
元祖帝国ホテルに対し、浅草マノスのシャリアピンステーキは一味違う。先述の通り、緑色のソースに彩られたステーキが登場すると、一瞬コレってシャリアピン?と思うが、ソースの下はやっぱり炒め玉ネギで覆われている。ナイフを入れると、驚くほど軟らかい。口に運べば、ソースと玉ネギと牛肉のハーモニーが怒濤(どとう)のように押し寄せて来て、あぁシアワセ!
川村社長に、美味の秘密を尋ねた。帝国ホテルではランプ肉だが、同店はヒレ肉を使用。玉ネギは甘さを残す程度にソテーし、最後に甘口ワインで仕上げる。その甘味とのバランスを考慮したのが、あの緑鮮やかな同店オリジナルソース。豊かなガーリック風味が、味に幅を持たせている。
浅草という特殊な地に根差すのは、決して簡単なことではないだろう。歴史と文化を観光客に向けて発信しつつ、地元客も大切にしなければならない。手間を掛けたこだわりの逸品ばかりの同店だからこそ、多くの人に愛されているのだろう。3代目もフロアを担当している。浅草マノスの将来が楽しみだ。
※宿泊料飲施設ジャーナリスト。数多くの取材経験を生かし、旅館・ホテル、レストランのプロデュースやメニュー開発、ホスピタリティ研修なども手掛ける。