昔から頭の中の何割かは、大好きな食べ物のことで占められている筆者。3姉妹の長女ゆえ、テーブルを囲む際はいつも、今は亡き父の隣が指定席。父が「コレ食べてみるか?」と取り分けてくれたので、子供の頃から大人向けの珍味も食す生意気チャンだった。
中でも思い出深いのが「タルタルステーキ」。ご存じの通り、細かく叩いた生の牛肉に、タマネギ、ピクルス、ケッパーやアンチョビなど薬味をみじん切りにして混ぜ合わせ、塩、こしょう、オリーブ油などで調味する。
初めていただいたのは、都内某老舗ホテル内のステーキハウス。当時はワゴンサービスで、白く背の高いコック帽を被ったシェフが、ボウルに次々材料を投入し手際よく混ぜ合わせると、目の前でおいしそうなタルタルステーキが出来上がる。子供心に魔法のようだと思ったものだ。
学生時代、母と行ったパリのビストロでタルタルステーキをオーダーしたときのこと。ギャルソンが突然日本語で、「ナマニク!」と叫んだのには驚いた。聞けば、以前日本人が注文した際、「ステーキなのに焼いてないじゃないか、生の肉なんて食えるか!」とひと悶着(もんちゃく)あったという。
日本では古くから馬刺しを食べる習慣はあるが、牛肉の生食は戦後韓国から入った焼肉と共に「ユッケ」として広まったといわれ、なじみがない人も多い。魚は生のまま食すのだから肉でも抵抗はなさそうだが、そうでもない。筆者の母もマグロの刺し身は大好物だが、肉の刺し身はNGだ。
海外を見渡すと、肉の生食文化を有する国は案外ある。タルタルステーキは今やフレンチの定番だが、元は中央アジアの遊牧民族タルタル人が食した馬肉料理が起源だそう。ヨーロッパに伝わると、労働力として貴重な馬の肉から、家畜の牛の肉に代わった。
ちなみに、ドイツのハンブルグでこれを焼いたのが、ハンバーグの発祥とか。そのドイツには「メット」と呼ばれる料理がある。生の豚ひき肉に香辛料などを混ぜた物で、パンに塗って食べる。スーパーで買えるぐらい、一般的に食されている。
同じ欧州のイタリアには、牛生肉の薄切りにオリーブオイルとパルミジャーノ・レッジャーノをかけた「カルパッチョ」がある。タルタルもコレも生魚バージョンがあるが、刺し身のカルパッチョは日本で考案されたらしい。オーストラリアではカンガルーのカルパッチョを食べたが、生で薄切りなら、もはや何でもカルパッチョだ。
日本では規制が厳しくなり、冒頭の店もタルタルステーキは提供していない。生肉専用の設備を整え、表面から深さ1センチほど加熱するという基準は、ハードルが高過ぎるとの声も。普通の店では対応不可能だ。
キッカケとなった食中毒事件、店の管理も問題だが、本来全ての厨房スタッフが、自分の大切な家族に食べさせるつもりで調理すれば防げたはず。今後に生かし、より多くの店が美味で安全な生肉を提供できるようになればと願う。
※宿泊料飲施設ジャーナリスト。数多くの取材経験を生かし、旅館・ホテル、レストランのプロデュースやメニュー開発、ホスピタリティ研修なども手掛ける。