小学校教諭から有名進学塾講師を経て、現在は私塾を主催している旧友との会話。
「最近の子供たちはますます答えだけを知りたがるようになってしまった。ともすると答えを知る過程を重要視しない受験、を否定するわけではないが、自分が何を考え何を感じるのかがおろそかにされているようで面白くない」
「まずは国語力を身に付けることが大切なのに、そこもおろそかにされている。尊敬する数学者の藤原正彦さんも『一に国語、二に国語、三、四がなくて五に算数、あとは十以下』とおっしゃってるではないか」
「多くの子供たちは、大人に管理されすぎている。偏差値レベルの高い学校に行くことのみを重要視する親のなんと多いことか。このままでは、自由に考えたり行動したりすることが苦手な、生きる力の乏しい若者がたくさん生まれ、国の将来が不安で仕方がない」
当初、鼻息の荒かった会話も程よい酔いが手伝って、晩秋の夜は穏やかに更けてゆく。
周りを見回しても、早く簡単に答えを導こうとする「正解主義」がまん延していると思うのは私だけではないはずだ。子供たちだけでなく、企業研修などの場面における大人の間でも、答えにたどり着くための過程が二の次になっている。
知識の量に基づく正解にたどり着くためだけならば、人は生成AIにかなうはずがない。
生きる力を身に付けるためには、実際に考え、問いかけ、行動することが大切なのは自明のこと。生成AIやメタバースなどの情報装置が急激に発展している今こそ、実際に体験することがますます大切になってきているのではないだろうか。
平成の当初から始まった失われた30年、深刻化を増す少子高齢化、油断ならない国際情勢、きっちり対応してほしいけれども劣化し続ける政治など、国だけでなく企業も個人も経験したことのない危機にさらされている。課題を解決する正解が簡単には見つけられない今こそ、飽きずに懲りずに問い、考え、行動し続けることが求められている。
SNSなどでの過激な自己表現や過剰な自己承認欲求が当たり前のように飛び交う状況にさらされていると、自分自身の問う力に自信が持てなくなっていることに気づく。このままではまずい、何とか社会を変えなければと思うならば、過去から現在までを正確に認識する必要がある。明治維新、敗戦を経て、日本人がどのように歩んできたのかを一人一人が学び、変化できることと変化できないことを知る必要がある。その先に、進むべき道が見えてくると思う。
子供も大人も全ての人たちにとって「問い、考え、行動する」ことがこんなにも求められている時代はない。何が正解なのか簡単には分からない。もしかしたら永遠に分からないかもしれない。でも、なんだかワクワクしてくる。まだ間に合う。
(EHS研究所会長)