舌が覚えている旅館があります。辛い、苦い、しょっぱい、甘い、柔らかいなど、味覚で記憶した宿のことです。
昭和43年に刊行された、上質な文化を追求する、食通のための月刊誌「味の手帖」は、美食家、料理人、財界や文化人の皆さんの対談やエッセイで構成されています。僭越(せんえつ)ながら、ここに私も「おいしい♨ひとり旅」という連載で参加しています。
毎月、旅で出会った味を書いていますが、ネタに困らない。
そもそも温泉そのものにも味があります。日本一まずい温泉で知られる新潟県月岡温泉、昆布茶の味のおいしい温泉の新潟県越後長野温泉、ぐびぐびと喉ごしのいいミネラルウオーターのもととなっている山梨県下部温泉などなど。
温泉を使った料理も、数々思い浮かびます。熊野本宮に参拝する前に身を清める温泉かゆは、和歌山県湯の峰温泉でいただけます。有馬温泉の炭酸泉が入っている炭酸せんべいはさくさくとし、これほど柔らかくなるのかと感動すら味わえる食感が忘れられません。大分県別府温泉での地獄蒸しは、天然の釜で鶏や野菜を調理したもの。温泉の香りが風味として付いていたりします。温泉で入れたコーヒーも渋みがよく出て美味。新潟県松之山温泉では特産の妻有ポークを使った湯治豚がいま注目されています。高温の源泉で低温調理して豚のうまみを引き出した逸品です。佐賀県嬉野温泉の温泉湯豆腐も湯の重曹成分で豆腐がとろとろに。クリーミーな仕上がりは癖になります。
旅館で出会った味も千差万別。最近の旅で記憶に残っているのは、岐阜県奥飛騨温泉郷で味わった漬物ステーキ。奥飛騨の味といえばほうばみそを浮かべますが、そのみそを焼く鉄板に漬物が載せてあり、上には卵の黄身が一つ。混ぜ合わせながら焼いていただく。ふうふうと塩っ辛さが増しますが、ここに日本酒を口に含むと、体がぽかぽか。雪が深い奥飛騨、降り積もる雪景色を眺めながらいろりを前にいただいた、あのあたたかな気持ちを忘れません。
今の季節はたけのこがおいしそうだなぁ。
いま口の中は唾液で一杯。うぅ、食べたい。そしてこんなにも食べていたんですから、その分が体の重みに加算されているかは…、ご想像にお任せします。
そして「味の手帖」では、「味の365日」という、連載陣が毎日短い食エッセイを寄せる日めくりカレンダーがあります。
ここにも私は書いており、ちょうどいま2019年分を執筆中。24日分を担当するので、24回分の食のネタが必要ですが、さほど苦ではありません。
おいしい♨ひとり旅の連載も1年がたちました。カレンダーの参加も2年目。振り返ってみると、温泉地は実に味の変化に富みます。
(温泉エッセイスト)