【創刊70周年論文コンテスト】特別賞 「私の旅館経営」近兼孝休 氏


近兼氏

 新型コロナウイルス禍による自粛規制も一段落した日曜日の昼下がり、従業員が誰もいない、電灯も点いていないホテルのロビーで訪ねてくる友人を待っていた。数え切れない多くの客を迎え、送り出してきた空間はことさらに大きく感じられた。新型コロナウイルス禍が観光産業、中でも旅館経営に与えた影響はあまりにも大きい。眠れない夜を経験して意識は尋常ではなかった。

 「枝振りの良い松の木を見つけておいたからね。」と、その友人は屈託のない軽口をたたきながらやってきた。「グローバル化が行き過ぎた観光業界は一人の知恵ではどうにもなりませんよ。」とその友人は新型コロナウイルスに翻弄されている旅館経営に無頓着な評価を下している。未曾有の窮地に立たされている私の気持ちを逆なでする言葉であったが、どこか憎めない愛嬌も有り、2時間近い会話で久々に気持ちの晴れる思いをした。

 友人が帰ったあと、真夏のような日差しが差し込む窓辺のソファーに座っているといろいろな事柄が頭の中を通り過ぎていく。友人の言葉を借りるまでもなく、「一人で考えてもどうしようもない」ことばかりである。お客様を迎えていたころには想像もできなかった静寂な時間である。具体的には何もすることがないのである。新型コロナウイルス禍が与えてくれた貴重な時間であると考えるにはあまりにも過酷な試練である。

 私は、古くから“こんぴら参り”で賑わった金刀比羅宮の門前町に隣接した小さな村で生を受けた。江戸時代、徳川幕府の天領であったことから、民家も比較的多く、狭い地域であったが、小旦那衆が集まった比較的裕福な土地柄であったように記憶している。そうした環境の中、私は、通りから少し入った路地裏で小さなうどん屋兼料理仕出し業を経営する父母の下で生まれることになる。

 物心がついたころは太平洋戦争が厳しさを増していた。国民の誰もが貧しい生活を強いられている中で、料理仕出し業の子供ということもあって食べ物に不自由したことはなかった。それよりも、終戦直後、物資不足の中、父母が作るお米の入っていない、芋の蔓や大根の雑炊に多くの人が行列を作っていた光景を覚えている。この雑炊が私たち子どものお腹を満たしてくれたことは言うまでもない。当時、お米や麦、野菜といった日々の商いの材料があらゆる知恵を駆使して取引されており、警察の巡検を受けていた状況を鮮明に覚えている。そうした環境の中、「三つ子の魂百まで」の諺通り、商売人としての私の才覚も自然に身についていったのかもしれない。子供の頃の私は、近所の子供たちと同じように、近くの村立小学校に通い、友達が集まるとビー玉、メンコ、陣取り合戦などをして遊んでいた。

 当時の香川県は全国的に学習意欲が非常に高く、野球の盛んな時代であった。特別に勉強したという記憶はないが、成績が特に悪いということはなかった。図工が得意で算数と英語が苦手な私は、中学校の時代、野球に熱中した。いわゆる野球少年であり、いつもチームの中心にいて仲間を鼓舞し、試合をしても勝つことが出来るチームになっていた。香川県大会で準優勝した経験もある。野球に熱中すればするほど、夜も遅くなり、勉強する時間も少なくなり、当然の結果として成績も落ちてくる。父親も兄とは違って私にはあまり勉強のことは言わなかったのを幸いに野球にのめり込んでいく一方で、父や母の希望もあって、料理仕出し屋を手伝って料理を配達する仕事が多くなっていった。野球に明け暮れる中で突然の転機が訪れた。中学三年生の時、父が膵臓壊疽という病名で急に亡くなったのである。これを境に、祖母と母が料理仕出し屋を切り盛りすることになり、仕出し弁当を配達する私の頻度が増えていった。野球をしながら家業を手伝っていたのが、いつの間にか時間配分が逆転していったのである。私の人生に大きな変化が起きてきた。

 父が亡くなって3年、祖母と共に料理仕出し屋を切り盛りしていた母が病気になった。高校二年生の春であった。病に倒れた母に替わって祖母を助け、家業に邁進することになる。実質的な高校生の家長が生まれたのである。

 家業が忙しくなり、幸か不幸か、遊ぶ時間がなくなっていった。一緒に悪さをしてきた仲間との接触機会も少なくなっていった。そうした中で、先生も含めて周囲の人たちの励ましと支援によって何とか高校を卒業することが出来た。一方で、兄に学費を仕送りしていた母の姿を見ていたこともあり、兄への嫉妬心と自己犠牲への感情が続いていた。家業によるストレスと将来への不安に耐え切れなくなってきた。思い切って家族には告げずに家出を決行した。私が18歳の時である。紹介者もお金もないことから、新聞の広告にあった調理師見習募集に履歴書を送付した。幸い返事は直ぐに来た。夜中に荷物を纏め、黙って家を出た。私が家出したことの顛末である。

 三ケ月間、懸命に働いたことを覚えている。昔から、日本には“丁稚奉公”という言葉があるが、随分年長の丁稚であった。寝る部屋も与えられなくて、毛氈の上に毛布にくるまって寝ていたことを覚えている。寒い時期を前にしてこれ以上は耐えられないと思って直訴したところ、祇園(京都)の高級旅館に紹介してくれた。“ボンちゃんが一人いるが要るか?”という短い言葉のやりとりであった。千二百円の給料をいただいたが、ここでも丁稚同然の生活が続くことに変わりはなかった。風呂場の二階がねぐらであり、他の丁稚と相部屋であった。外米の主食は提供されたが、副食やみそ汁はなく、自分で調達するといった生活が続いた。今では信じられない生活であった。しかし、仕出し業の仕込み経験とある程度の調理師経験があったので重宝されたのは幸運であった。当時、丁稚のことを“チョーヤン”と呼称されており、それをもじって私が先輩たちから“近ヤン”と呼ばれていたことは遠い昔の話である。こうした生活を続けながら、大阪に出て修業を続けたいと思う一方で、祖母や母のことが気になっていた。病弱な母からの捜索願い(?)が出たこともあって、故郷の料理仕出し屋に帰ることになった。

 将来の生活についての具体的な企画や戦略のない中、自分なりに我武者羅に突き進んでいく内に、料理仕出し屋の内容も比較的安定し、お客さんも増えていった。この頃、私の心の中に、旅館を作る覚悟のようなものが芽生えていた。私がまず手掛けたのは、当時七つの小部屋であった仕出し料理屋を改築して十室の個室と宴会場を併設して、有限会社料理旅館丸忠を設立し、代表取締役となった。仕出し業から旅館業に一歩を踏み出したのである。言うまでもなく、これが私の旅館業人生の始まりである。昭和36年4月、高校を卒業して四年目の春であった。そして、翌年の昭和37年3月、客室二十室の「旅館丸忠」を開業して、有限会社旅館丸忠に改組した。

 いま振り返ってみると、大変無鉄砲な行動であったようにも想える。当時の旅は今と違って鉄道が中心であった。「旅館丸忠」の立地は鉄道の駅から観光客が向かう“こんぴらさん”とは逆方向にある立地条件の悪い土地であった。そこで、中古のマイクロバスを購入してお客さんの送迎を始めたり、従業員全員が“こんぴら舟々”などの踊りを習って歓迎したり、私自身、板前の修業をしていたこともあって、お客さんに提供する料理もいろいろと工夫するなど、立地条件と設備の悪さをカバーしていった。当時の若い社長が恥や見得を捨て去って考えられる範囲の精一杯の努力をした。

 自ら板前をし、マイクロバスを運転する日々が続く一方で旅行業者との提携を持たない苦しい立場で旅館業を続けていくためには老舗の旅館から溢れたお客様をいただくという惨めさを痛切に感じていたのもこの時代である。「独自のお客様を開拓したい」との一念で、関西を中心に、エージェントへのセールスのためにとにかく精力的に歩いたことなどを想い出すと同時に、何度訪問営業しても、“丸忠旅館さんでは…”と、断られたのも今では懐かしく思われる。当時はとにかく必死で歩いたように思う。この時期、半分はあきらめ、半分は意地で自分のやりかけた仕事をしていたような記憶がある。お客様の有難さ、セールスの原点について今想い出しても気が引き締まる思いがする。いまから考えると当たり前の企業努力ではあったが、若さ故のあれもこれもという過剰な要求に従業員がよくついてきてくれたものだと感謝の言葉以外にない。

 自分はこの家業からもう飛び出すことはできないのだろうかと考えながら、それでは自分の夢は?希望は?と悩む日々が続いていく。そうした日々を送る内に、自分の中に一つの夢のようなものが膨らんでくる。旅館業を続けるのなら“こんぴらさん”の麓に入ってしたい。“こんぴらさん”の参道口で旅館業をしたい。どうせなら、琴平にはない旅館、土足のままで部屋に入れる旅館(当時の老舗旅館は下足番がいるのが当たり前)を創りたい。全館冷暖房完備、バス・トイレ・テレビ付、格差のない部屋、館内にクラブや売店も作りたい。付帯設備を充実して、その利益で借入金の返済を助けていこう。日夜考え続け、そして夢はどんどんと膨らんでいった。二十七歳の春、私の旅館に賭ける一念が決まった時である。

 そんな折、幸いにして、現在の本館の土地との出会いがあった。こんぴらさんの下で旅館ができる。琴平の参道口に新しい旅館を!の夢がはっきりと見えだした。自分の夢に向かってどんなにつらくても、マラソンランナーの先頭集団に入ってついていこう! まず、琴平にない旅館を研究することにした。夢を描いて計画し、希望に胸膨らませて計画書を作り、それまで取引のあった銀行に相談に行ったところ、「本当に夢のようだ」との支店長の一言で融資話どころではなかった。口惜しさと自分の甘さを思い知らされた出来事であった。私は「自分がここまでやってきたのだ」と自信過剰になっていたのかもしれない。また、周囲に煽てられ、いい気になっていたのかもしれない。ひどく落ち込んだことを覚えている。私が商売で初めて経験した挫折であった。こうした中で、私を励ましてくれたのは従業員であった。「料理仕出し屋から旅館を建ちあげ、一緒に頑張ってきたのだから、また、新しい旅館でお客様をお迎えする日がきっときますよ。」と言ってくれた。仕事において、「私が」ではなく「私たちが」という主語を変えるようになったのはこの時からである。「私の夢は皆の夢、皆の夢は私の夢」だと考えるようになった。

 しかし、若さ故に夢を捨てきることができずに、これも若さを武器に、全国農協中央会の会長さんに自分の夢を聞いてもらうことにした。結果は、自分の予想に反して、会長さんから琴平町農協の組合長と香川県信用農業協同組合連合会を紹介していただける幸運を得ることになった。この時の縁が契機になって、この後いろいろとお世話になる設計事務所や建設業者とも巡り合うことができた。更に幸運なことに、私の夢を真面目に聞いて下さる理解者がもう一人おられた。自分が経営する旅館丸忠の底地を所有されていた地主さんは、私の話を聞いてくださるだけでなく、夢の実現に向けて励ましてくれる一方で、土地を安く譲ってくださった。こうして得た土地とその上に建つ建物を担保に三億円という融資を確保することができたのである。今にして思えば融資額が破格であったと同時に夢に向かって大きく前進できた一瞬であったように想える。

 建築にかかってすぐの昭和48年、日本中の経済がオイルショックで停滞する中、借金の支払いができない自分の姿を夢に見るという不安を抱えながら「こんぴら参道口で旅館業をしたい」という夢の実現に向けて事業を進めていくことになる。オープン当日、玄関のタイル張りが間に合わなくなり、私も含めて従業員が皆で手伝ったり、接待係がエレベータの操作に戸惑ったり、今から思えばほのぼのとした思い出である。

 こうして、昭和48年10月、“こんぴらさん”の参道口から二十二段目、琴平町九七七番地に「琴平グランドホテル」を新館オープンさせることができた。江戸時代より続く庶民信仰のメッカである「こんぴらさん」の愛称で親しまれている金刀比羅宮の伝統ある門前町に産声を挙げることができたのである。お陰で送迎客も多くなり、昔から“こんぴら観光”の市場であった関西地区との繋がりも密接になり、客室稼働率七十%を維持していた。しかし、その裏では人材育成、従業員教育を徹底する必要も感じられるようになり、旅館業に携わる者として徐々に認めていただくようになってきた。全国から多くの参拝・観光客を集めて賑わいをみせてきた「こんぴらさん」のお陰で琴平町の就労人口の七割以上が何らかの形で観光産業に関わっており、観光が地域を支える基幹産業になっている土地で自分も観光産業に寄与できる一人になれたとの思いが今でも脳裏に蘇る。

 その後、会社の名前も有限会社琴平グランドホテルに改称し、従業員寮も整備する。そして、昭和50年3月には株式会社琴平グランドホテルに組織変更し、その代表取締役社長に就任した。旅館丸忠の時代には九州や中国地方のお客様が中心であったが、琴平グランドホテルをオープンした直後は関西や東海地区のお客さんが増え、大阪や名古屋の案内所が嬉しい悲鳴を上げた思い出が蘇る。借入金の重さと支援をしてくださった方々に迷惑をかけられないという一念から我武者羅に働いたこと、お客様の寝たばこで起きた昭和五十二年の火災や昭和五十五年の社員による刑事事件等々で世間を騒がせたことによる信頼関係の喪失を回復するための努力など、今では遠い昔の思い出である。

 「こんぴらさんの麓で旅館業をしたい」と思う夢は更に広がり、昭和五十四年には琴平グランドホテルの隣地を購入してホテルの増築に踏み切ることにした。しかし、これ以上の鉄筋コンクリート構築物は駄目だと町並み保存会から猛反対が起こる。話し合いによる交渉を重ねる内に自律神経失調症になるという事態に追い込まれるといったハプニングが起きる。夢の実現と自分の信念に向かって真剣に取り組んだ証でもあった。しかし、幸いなことに、金融機関はこれまで六年間の実績を信じて琴平に新しいタイプの旅館を創るという私の夢に気持ちよく協力してくれた。こうした経緯を経て、昭和57年3月には南館を新築オープンさせ、客室を八十三室に増やすことができた。当時は、時代の流れの中、何百年も続いた老舗旅館を筆頭に五つの旅館が廃業し、琴平の町に活気が消えていった時代に相当する。

 このまま伝統ある“こんぴら観光”を終わらせてはいけないという関係者の思いを込めて、昭和60年6月、鳴門大橋開通と時を同じくして日本最古の芝居小屋として国の重要文化財に指定されている金丸座のどん帳が上がった。新しい時代に向けて皆が力を合わせた結果である。こんぴら観光の再興というよりは四国全体の活性化の目玉として始めた四国こんぴら歌舞伎大芝居ののぼりが町中にハタメク風景に触発されて私自身の中にも三度(みたび)夢が浮かび始めた。瀬戸大橋が開通するまでに別館を建築したいという夢である。本館とは異なるイメージを持った旅館、建物、サービス共にお客様に夢を見ていただける旅館、同業者ホテルとの競争ではなくお客様の住宅(別荘)としての旅館、ブームが去っても生き残れるソフトが機能する旅館を目指して、当時三十四歳という若い設計者を見込んで共にイメージを膨らませていった。その結果が、琴平町五五七番地一に新館オープンした鉄筋十階建て客室七十四室の琴平グランドホテル紅梅亭である。瀬戸大橋が開通した昭和六十三年のことである。幸い、紅梅亭はオープン直後から予想以上のお客様にお越しいただき、琴平の町に観光ブームを起こすことになった。こんぴら観光の再興がなったと思った。しかし、五~六年は続くと言われていた瀬戸大橋ブームは一年余りで終わりになり、その後に残ったものは以前にも増して醜い姿であった。「“こんぴら”という所はその場限りの儲け主義」といった言葉に代表される多くの悪評を残して観光客は去っていった。

 こうした状況の中でも私の夢は消え去っていなかった。平成10年4月には琴平グランドホテルを改築して館名も琴平グランドホテル桜の抄に改め、平成14年11月には紅梅亭を改築し、館名も「湯元こんぴら温泉華の湯紅梅亭」と改め、花てらす(露天風呂)・花くらぶ(リラックスフロアー)・貸切露天風呂をオープンするなど、時代にマッチした施設づくりに全力投球すると共に、観光客の宿泊誘致を広範囲に展開するなど、営業発展に邁進する。こうした設備の拡充に対して、私は常にお客様の立場に立った接客、「お客様のためにどうすれば快適に過ごしてもらえるか」「お客様の喜びが従業員の喜び、従業員の喜びが経営者の喜びである」との自らの接客精神を自ら範を示して従業員教育に力を入れ、四国を代表する旅館として、お客様に安心・快適に宿泊していただくため、安全確保、設備の改善、接遇サービス向上を図っており、宿泊・観光業界の発展に尽力してきた。

 当時、全国に名が知れた旅館を経営されている先輩から、「これまでの門前町にはないものを追求していきなさい」との示唆をいただいたことを思い出す。その当時、私は三十歳後半、言葉の内容をどのように理解したか定かではないが、少なくとも「古いものを切り捨てて新しいものを追え」という意味ではなく、「温故知新」「伝統の上に胡坐をかいてはいけない」といった意味に解釈したと覚えている。漬物のぬか床は毎日かき混ぜておかないと駄目になるように、時代の波に柔軟に対応していくことが必要であり、新しく見直し続けなければならない。日本の伝統文化の代表のように見られている華道や茶道が時代の盛衰の中で連綿と続いてきたのは柔軟性があったからで、自分の旅館もそのようにしたい。私は勝手に解釈して、伝統ある門前町をその時々の時代に如何にして合わしていくか、私の想いは一層大きく膨らんでいく。しかし、想いが大きくなればなるほど、老舗旅館が林立する中、直面する壁は高く、銀行との折衝、土地の確保、支援者への説明、設計者や建設会社との折衝等々、経験の浅い自分には荷が重すぎて気持ちが折れそうになったことは一度や二度ではなかった。その度に多くの支援者の励ましと具体的な支援によって立ち直ってこれたことは幸運であった。

 そうしてオープンした「琴平グランドホテル」であったが、当初から毎日満室が続くことになる。そんな旅館は当時琴平にはなかった。当初より夢に描いていた新しい旅館像、同じ建物の中にスナックやバーがあり、冷暖房も完備した快適環境、格差のない部屋がお客さんの心を捉えたのだと思っている。当時の時代背景も幸いして、経営は順調に推移することになる。そうなると、次の夢、「増築をしたい」といった夢が膨らんでくるのは経営者の欲である。そして、少々無理をして琴平グランドホテルの隣地を買収したのは昭和55年である。増築となると、200畳の大広間が二つ欲しい。客室も倍にしたい。欲望は膨らむばかりである。しかし、増築工事は難工事になった。当時として例のない大規模工事になった上に、周りに家が密集し、建築資材を搬入する進入路もない傾斜地での工事になった。今の技術では何の問題もないが、当時としてはどうやって鉄骨を立てれば良いのかさえ分からなかった。建築費用を安くするための交渉には全精力を投入した。

 こうして、琴平グランドホテルは本館と合わせて客室九十室、大小宴会場や会議室も完備した旅館になり、従業員寮の整備も完了した。一通りの夢も叶え、大勢も整った。しかし、瀬戸大橋の完成時期が近づいてきた。「絶対にもっとお客がくる。」と私は確信していた。「絶対に成功する。」という信念に似たものが心の中に芽生えていた。昭和六十一年、次の夢の実現に向かって走り出す瞬間であった。

 新しい旅館の建設予定地は、その当時、十三筆の所有者に分かれており、土地の買収には難渋した。近隣では例のない大規模工事になった。設計事務所も建設会社さんも一体何をどうすれば良いのか、全てが一から始めなければならない事ばかりであった。初めて経験することも多く、建築費の積算ができなくて大論争になったことを覚えている。それでも、瀬戸大橋の開通の日が迫ってくる。開通に間に合わなければ建築する意味がない。ホテルを建てながら土地の買収も進めていくという無謀なこともすることになった。

 そして、昭和63年2月18日、遂に新館紅梅亭がオープンすることになった。そして、沢山のお客さんが来ていただいて毎日がお祭りのような忙しさであった。でも、今度は従業員が足りない。そこで、私自身があちこち人集めに奔走して、社員育成の勉強をしながら、皆で建物に相応しい「人間力」を高めようと努力した。そうして成長した社員の多くが他のホテルに引き抜かれていったこともあった。悔しいがこれも現実の姿である。若さと夢と希望で乗り切っていった時代である。

 瀬戸大橋の開通した年は溢れるばかりのお客さんにきていただき、地域の観光産業としては随分と利益も上がった。琴平の町にも観光ブームが訪れた。田舎道にもお盆や暮れの高速道路のような大渋滞ができ、どこの旅館もお土産物屋も大繁盛した。しかし、誤算は、数年続くと思われていた「橋」の好景気は一年しか続かなかった。当時の気持ちを表現する言葉として「桃栗三年橋1年」を想い出す。本当に人の興味は直ぐに冷める。流行を追って仕事をすることは怖い。先の先を考えないといけない。実体験した貴重な人生訓であった。

 今では、琴平グランドホテル桜の抄、琴平グランドホテル紅梅亭のどちらも観光経済新聞が選んだ「人気温泉旅館ホテル250選」など様々な部門で毎年入賞するまでになった。お客様を始め、多くの人たちのお陰である。私には、旅館人生を彩る多くの出会いがある。遡ればきりがないが、私たちの世代には人との出会いや義理を大切に思う気持ちが浸み込んでいる。大切にしなければと思う。

 功成り名を遂げた人生の先輩たちの座談会や自伝書などを拝見すると、決まって「座右の銘」が披露されている。人生経験の豊富な方々の座右の銘はそれなりに含蓄もあって、心打たれることが多いと同時にそれぞれの人生観が見えるようで勉強になる。私には、特に「座右の銘」なるものはないが、長い間、接客業の最先端で働かせてもらっていると自然とそれに似た言葉も生まれてくる。「失意泰然、得意冷然」もその1つである。日本の財界に名を遺す方の言葉であるとの説があるが定かではない。私なりに「苦しい時期も華やかな時期も一喜一憂することなく、淡々と自らのなすべきことをやっていこう。」という意味に解釈させてもらっている。浮き沈みの激しい旅館業に携わっていると、失意と希望を繰り返し、一喜一憂する自らを制御することが必要になり、自分を律する意味もあって、今では私の旅館業人生の基本理念に等しい言葉になっている。

 また、旅館業を長年にわたって営んできた経験から、「諦めない姿勢の大切さ」「長期的な信頼関係の大切さ」「会話の大切さ」といった言葉も私の処世の拠り所として心に刻み込んでいる。私が「観光カリスマ」に選ばれ、JTB協定旅館ホテル連盟の西日本支部連合会会長(本部副会長)に推された際に、私のような“単なる旅館のおやじ”の何処を皆様に認めていただいているのだろうかと自問自答した結果行き着いた言葉である。私の旅館業人生を支える言葉になっていることは言うまでもない。

 古くから旅館業が“水商売”の範疇で取り扱われていた時代から新しい旅館業の姿を求めて “サービス業”“観光業”“観光産業”へと脱皮していく過程で思いつくままにあらゆる努力を繰り返してきた。“こんぴらさん信仰”を中心にした門前町に残る古くからの伝統やしきたりからの脱皮に奔走させていただいた。これらは未だに志半ばではあるが、今では懐かしい思い出の1つである。多くの関連業界、行政、政治家の方々のお世話になったことは言うまでもないが、一部の誤解や反対を承知の上で若さと信念で突っ走ってきたことを反省している部分もある。そうした中で、私の心の中には“おもてなし”は“原価のかからないお客様へのサービス”であるとの信念が芽生えてきた。良き仲間、良き従業員に恵まれ、多くのことを学ぶと同時にお客様へのサービスについて私なりの確固たる信念が醸成されたことは幸運であった。

 「地域を愛する心」「人を愛する心」「おもてなしの心」等々で使われる「心」こそがサービス向上にとっての究極のソフトであり、資産でなければならない。ブームや景気の抑揚によって「ハード」は変化する性格を有しているが、「心」を永遠に忘れることなく向上させていくことがお客様の期待に応え、業界を盛り立てていくことに繋がると信じている。私の旅館業人生において、夢の実現を目指し、困難な事柄に直面し、それらを乗り越えてきたエネルギーの基本であったと言っても過言ではない。

 「心」というものは時代の価値観は言うまでもなく、ブームや個人的な野心によっても揺れ動くもので、「安定した心」というものは得難い。とりわけ、大きな問題に直面した時には大海の小舟のように揺れ動くことは誰しも経験している。何事にも「穏やかな心」で対処できるということは「悟り」の境地であって、私のような凡人には到底及びもつかない境地である。定まることの知らない「心」をどのように安定させるか、旅館業を通して学んだ私の考えは(1)良きスタッフに恵まれる、(2)良きスタッフを育てる、の2点である。

 ここで言うスタッフとは経営者と一緒になって心を1つにして、しかも私の手足となって働いてくれる人、これが良いスタッフだと思っている。また、経営をしていく上には同時に良きブレーンが不可欠である。常に私の反対側に立って、私と異なる視点から見て素直な意見を述べてくれる人、これがブレーンである。

 私は5月14日が誕生日である。82歳、平均寿命に達したばかりである。観光産業には言うまでもなく文化と観光が表裏一体をなしている。先人たちが護り育ててきた日本の文化を次の世代に継承していくためにも地域に根ざした新しい旅館経営を模索していきたいと夢見ている。新型コロナウイルス禍によって否応なく変革が求められようとしている旅館経営にも必ず新しい出口があることを信じている。


近兼氏

【筆者略歴】昭和13年5月14日生。32年3月香川県立琴平高等学校卒業。37年有限会社丸忠設立、代表取締役。48年株式会社琴平グランドホテル代表取締役社長。平成20年同社代表取締役会長。琴平町観光協会会長、こんぴら温泉旅館ホテル協同組合理事長、香川県観光協会副会長、日本観光旅館連盟会長、日本旅館協会会長などを歴任。国土交通省「観光カリスマ百選」に認定。内閣府地域活性化伝道師。四国こんぴら歌舞伎大芝居推進協議会常任顧問。

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