赤レンガの東京駅は日本有数の有名建築物であるが、その多くのスペースがホテルであることを知る人はそう多くない。私はこの東京ステーションホテルの2階建ての時代に、5年間常務取締役総支配人として勤務した。
1999年2月か3月のある日、JR東日本の鉄道事業以外の大部分の事業を担当する事業創造本部の取締役をしていた私は、先日訃報が伝えられた松田昌士社長に呼ばれた。「今日、石原さん(都知事)に会って、上空権の件と東京駅改築の件決めてきたからな、中のホテル頑張ってくれ」ということだった。
明治に造った松杭(まつがい)でできた基礎が弱ってきた東京駅改築は当時最大の懸案事項で、欧米で上空権を売って文化財保護の資金にするという事例があり、これを勉強せよという指示が出ていたのは知っていたが、まさか東京駅の上空権全額を使って大正2年完成の赤レンガを再建させることになるとは思わず、東京駅に高層ビルを建て、中に千室規模のホテルを造るという夢を描いていたわれわれは大いに慌てた。バブル崩壊後の日本経済の立て直しのために、東京超高層化構想が竹中平蔵氏を中心に進められ、松田JR東元社長のこの計画がその端緒を開いたということは、令和直前の平成31年4月6日NHKスペシャル東京超高層構想でかなり詳しく放映された。
松田社長の指示は、一流ホテルにせよ、である。壁、廊下等は明治の設計のまま、皇居側の客室は素晴らしい景観になるが、線路側は中央線の高架の壁が1メートル余先にある。これを一流ホテルにしろと言われても無理、何度か叱られながらやっとたどりついたのが、一流かどうかはともかく良いホテルにしますということだった。
私は2000年6月に転出したため、東京ステーションホテルにタッチしなくなった。辰野金吾設計の赤レンガの東京駅は昭和20年空襲で焼け、昭和26年戦後の応急措置で3階をカットした2階建てで復活。そして平成24年、大正2年創建当時のままの姿で復活した。
東京ステーションホテルは私が思いもよらないさまざまな発想が生かされて素晴らしいホテルになっており、苦し紛れにした「良いホテルにします」との約束は後輩たちが守ってくれた。それにしてもJR東の最大の財産である東京駅の高層化の夢を赤レンガの復活に使ってしまって良いのかという反対論を押し切った松田元社長のスケールの大きさを東京駅の勇姿を見るたび思い浮かべる。
(一般社団法人日本宿泊産業マネジメント技能協会会員 元JR東日本取締役事業創造本部担当部長 石川純祐)