最近は、町中や施設のバリアフリー化が進み、障がい者も自由に外へ出掛けられるようになってきた。外の世界との接触が増えれば、障がい者の暮らしも豊かになり、生活の質も上がるというのが一般的な考え方だ。
しかし、盲導犬を手に入れたある視覚障がい者の考え方は、違った。「これで、私はようやく出掛けない自由を手に入れた」というのだ。つまり、視覚障がい者にとって重要なことは、「出掛けられる自由」ではなく「出掛けなくてもよい自由」なのだ。言葉が意味するところは深い。視覚障がい者は、初めての場所に出掛けるときは同行する介助者をあらかじめ手配する必要がある。そしてよほどのことがない限りその場に待機し、介助者が来るまで待たなければならない。
「今日は、なんとなく行きたくない」「雨が降りそうだから今日はやめておこう」といった、そのときの気分によって予定を変えることは許されないのである。
「どこにでも行けるようになって良かったですね」の一言は、一見、障がい者に寄り添っているように思えるが、実のところ、障がい者理解の観点からいえば「いつでも出掛けられるようになって良かったですね」の方が心に響く。ここで大切なことは、「場所」ではなく「時間」を重視した言い方がとっさに出てくるかどうかだ。ささいなことだが、障がい者に言われて初めて、ハッと気付くことも少なくない。
例えば、視覚障がいのお客さまに料理を提供するときは「中央にお造りがあり、4時の位置に醤油(しょうゆ)猪口(ちょこ)があります」といったように、器の位置を時計の文字盤に合わせて伝えるクロックポジション法を使うが、つい「目の前、中央にお造りが…」と余計な一言を付け加えてしまうことがある。
先日も、車いすをご利用のお客さまに「車いすのお客さま」と呼び掛けてしまい、お叱りをいただいた。「私は人間です。車いすではありません」と言下に言われたときは、ジワリと嫌な汗が全身からにじみ出た。
また、最近、よく聞く「障害は個性だ」という言い方に違和感を覚える障がい者もいる。そもそも「障害者」とは、その人自身が「社会の、障害となっている人」という意味ではなく、「社会の仕組みによって障害をもたらされている人」のことを指す。障害=個性という考え方は、障がい者を取り巻く社会の課題を見えにくくするだけではなく、障害は障がい者個人の側にあるかのような誤謬(ごびゅう)を犯すことにもなりかねない。
もちろん、「目の前」「車いすのお客さま」「障害は個性」といった言い方を全く気にしない障がい者もいるだろう。しかし、このようなささいな一言が相手を傷つけることを知れば、もう一つ深いレベルで障がい者を理解し、気を配れるようになるに違いない。