熱を出すと、決まって同じ夢をみた。上野駅の地平ホームで夜行列車が無情にも扉を閉め、あれよという間に走り去る。母の手をほどいて、泣いて必死で追いかけた。幼いころに実際にあった出来事で、母はその夜、故郷・釜石への帰省をあきらめた。当時の上野は、「東北の玄関口」と呼ばれていた。
鉄道開業150周年でイベントが多い2022年。だが前年には、東北本線が全線開通130周年を迎えていた。コロナ禍による行動制限から縮小しての祝賀だったが、とはいえホームには横断幕を手にマスク姿で企画列車を迎えるJR東日本の社員の姿もみられ、胸が締めつけられた。
ちなみに22年は、東北新幹線が大宮・盛岡間開業40周年、八戸開業から20周年の節目にも当たる。新幹線の八戸延伸によって東北本線は並行在来線になり、JR東日本から経営分離された。そこで誕生したのが「IGRいわて銀河鉄道」である。盛岡から目時までの総延長82キロを、第3セクター方式で引き継いだ。
東日本大震災の支援活動の一環に、筆者が理事長を務める東京都認証「NPO法人交流・暮らしネット」は、6年前、鉄道の利用促進や沿線の観光振興を目的に、IGRのファンクラブづくりを提案した。被災地やふるさとを応援したいという気持ちが首都圏を中心に高まっていたときで、この指とまれで多くの賛同を得た。
その名も「銀河ファンクラブ」。年会費も大人2千円と小さく抑えた。発起人の皆さんと東京・新宿で開いた第1回のファンミーティングには、岩手県の達増拓也知事も駆けつけてくれた。ロゴマークは知人の杉田寿子氏に創ってもらった。
杉田氏のお父上は、震災後、観光庁が配布した「がんばろう!日本」のレタリングを担当された。われわれは、沿線の観光施設や企業を訪ね歩き、会員特典の協力を求めて、会報誌も創刊した。
初年度に目標会員数100人を達成したのを機に、事務局機能の全てをIGR本社に移譲することに決めた。これでもうけようという気はなかったからだ。今は、一会員として、静かに温かく見守っている。
鉄道会社はコロナの影響で定期券収入が大きく落ち込み、特に地方路線は厳しい状況にある。
IGRには、北海道と首都圏とを結ぶ貨物輸送の大動脈という別な顔がある。日に50本もの貨物列車が行き交うのだ。明治時代、最高の難所といわれた奥中山の十三本木峠をSLが重連、三重連で駆け上ったそうだ。そこを今は「金太郎」が勇壮に駆け抜ける。だが、22年8月の豪雨災害で、御堂・小鳥谷間で道床流出の被害が出た。全国旅行支援も始まり、系列旅行会社「銀河鉄道観光」から力強く回復するのを期待する。
無理を言って今夏、学生インターンシップを5年ぶりに引き受けてもらった。運輸管理所や設備管理所、運輸部、営業部で仕事を教わり、盛岡駅では実際の駅業務を経験する充実の内容で、最終発表会には筆者も駆けつけた。世話になった浅沼康揮代表取締役社長と席を並べて、学生の成果を聞いた。
その夜、学生たちを労うために選んだ店の名は「恩返し居酒屋・南部の子だぬき」。世話を焼いたつもりが世話になっている。IGRへの恩返しはいまだ道半ばだ。
(淑徳大学 経営学部 観光経営学科 学部長・教授 千葉千枝子)