欧州連合駐日代表部デジタル経済政策担当公使参事官のピーター・ファテルニグ氏
Booking.com(ブッキング・ドットコム)は9月15日、東京・高輪ゲートウェイコンベンションセンターで「Booking.com Innovation Summit Japan 2026」を開催した。午後5時20分からの「Deep Dive Session 4」は「オンライン上の安全——旅行者・事業者・地域社会の安全を守る」をテーマに開催。Booking.comバイスプレジデント・セキュリティ最高責任者(VP & CSO)のマーニー・ウィルキング氏、欧州連合駐日代表部デジタル経済政策担当公使参事官のピーター・ファテルニグ氏、内閣官房・国家サイバー統括室国際戦略ユニット国際戦略班企画官の前田京太郎氏が登壇した。ブッキング・ドットコム日本・公共政策部統括の根岸大夢氏がモデレーターを担った。
ウィルキング氏はサイバーセキュリティ、詐欺対策、リスク管理、製品・ソフトウェアセキュリティ、データプライバシーなど、Booking.comのグローバルなセキュリティ・安全対策を統括する。ファテルニグ氏は日・EUデジタル・パートナーシップを推進するチームを率い、半導体やAIといった重要技術ならびに経済安全保障に関する対話を主導している。前田氏は2004年に総務省に入省して以来、20年以上にわたりICTおよびデジタル政策、国際協力、官民連携、サイバーセキュリティ政策に携わる。現在は内閣官房の国家サイバー統括室で企画官を務め、国際的なサイバーセキュリティ関連業務を担当している。
セッションを通じて浮かび上がったのは、オンライン上の安全とは単なる防御策ではなく、旅行者から「選ばれる国・地域」となるための競争力の源泉であるという認識だ。そして、その実現には一企業・一国の取り組みでは限界があり、官民・業界横断・国際的な連携が不可欠であることが繰り返し強調された。

ホスピタリティ業界を狙うサイバー脅威の実態
モデレーターの根岸氏は冒頭、「旅行の予約から決済、宿泊施設とのコミュニケーション、体験提供に至るまでオンライン化が急速に進む一方、フィッシングや成りすまし、マルウェアといった脅威もより高度化している」と現状を提示し、「オンラインの安全を一企業のセキュリティ課題としてではなく、地域社会全体の信頼を支える基盤として考えていきたい」と議論の方向性を示した。
最初に口を開いたウィルキング氏は、旅行業界を取り巻くサイバー脅威の全体像を示した。「オンラインの安全性はデジタル経済における信頼の基盤だ。サイバー犯罪や不正はグローバルな問題であり、あらゆる業界・企業が日々脅威にさらされている」と述べた。
特に旅行業界に関しては、業界団体「情報共有分析センター(ISAC)」の最新レポート(2026年6月公表)を引用しながら具体的な数字を示した。ホスピタリティ業界で発生するマルウェア攻撃の約3分の1がランサムウェアによるもの。一方、残る3分の2はニュースで取り上げられることなく、企業内部に潜伏したまま数週間が経過してようやく発見されるという実態がある。
アジア太平洋地域については、「モバイルファーストの経済が進展しており、デジタル決済の普及拡大に伴い攻撃対象も増加している。マルウェア攻撃の約3分の2がモバイルデバイスやモバイルアプリケーションを標的にしている」と説明した。
さらに、ホスピタリティ業界特有の傾向も指摘。「他の業界ではシステムやアプリケーションの脆弱性を突く攻撃が増加しているが、ホスピタリティ業界ではそうではない。人間のレイヤーが最も攻撃者にとって『成功しやすい』手段であることが明らかになっている」と述べ、スピアフィッシングや従業員へのなりすまし電話(ITヘルプデスクを装った攻撃など)といったソーシャルエンジニアリングが主要な脅威であると解説した。「ホスピタリティは人を助けようとする業種だ。犯罪者はその信頼を利用しようとする」との指摘は、会場の関心を集めた。



Booking.comが実践する「予防・検知と対応・教育」の3本柱

Booking.comバイスプレジデント・セキュリティ最高責任者(VP & CSO)のマーニー・ウィルキング氏
ウィルキング氏はBooking.comが採用する対策を「予防」「検知と対応」「教育」の3本柱として説明した。
予防の面では、メッセージ内に不正なリンクが送信されないようにする仕組みの導入や、宿泊施設がやり取りできるリンク数の制限などを実施。オンライン安全対策としては、ワンタイムパスワードによるログオン認証や、リスクベースの分析による不正アクセス防止を展開している。「犯罪者がAIを使って攻撃を高度化しているなら、私たちも同様にAIを活用して検知・対応を強化している」と述べた。
検知と対応については、偽の予約やパートナーアカウントに不審な点が確認された場合、その予約を取り除くかロックをかけ、影響を受けた関係者に通知する初動対応を徹底していると説明。「犯罪者の行為を成功させないための第一歩だ」と位置付けた。
教育については「単に警告バナーを追加してパートナーやゲストに詐欺の手口を知らせるだけでなく、スキャムをどのように見つけ、どのように報告するかを周知している」と述べた。その上で「これらの取り組みはどれも単独では効果が限定的だ。業界全体で旅行をより安全で信頼できるものにし、旅行者・ビジネスパートナー・コミュニティを守るための協力が不可欠だ」と強調した。
Booking.comは情報共有分析センター(ISAC)のメンバーとして、グローバルなインテリジェンス共有に参加。ウィルキング氏は「私はRHIC(宿泊業界のISAC組織)で5年間役員を務めてきた。こうした連携を通じてインテリジェンスを活用し、様々な攻撃への対策を講じることができるようになっている」と語った。

国家サイバー統括室が示す「日本の現在地」

内閣官房・国家サイバー統括室国際戦略ユニット国際戦略班企画官の前田京太郎氏
続いて前田氏が、日本のサイバーセキュリティを取り巻く現状と、政府の取り組みを説明した。
まず、2025年7月に設立されたばかりの国家サイバー統括室について紹介。「日本政府全体のサイバーセキュリティ政策を総括する司令塔として機能させるために設置した組織だ」と述べ、設置の背景として2点を挙げた。
一つは、サイバーインシデントの深刻度が増す中、各政府機関がバラバラに対策を進めることの非効率さを解消し、横断的にとりまとめる組織の必要性。もう一つは、政府だけでサイバーインシデントに完全に対応することは不可能であり、情報や技術を持つ民間企業との連携強化のために機能強化が求められたことだ。
前田氏が指摘した日本のサイバー環境の特徴は3点。
第1点は、「サイバー攻撃がサイバー空間に留まらず、リアルな世界での商品・サービスの提供に深刻な影響を与えるようになったこと」だ。「各国・各地域で、サイバー攻撃を原因として、現実世界の商品やサービスが提供できなくなった事例は、皆さんも思い当たるはずだ。これは以前に比べて明らかに大きな変化であり、インシデントの深刻度が増した特徴の一つだ」と述べた。
第2点は、「攻撃対象の拡大」だ。「かつてはサイバー攻撃の対象は中央政府や大企業が中心だったが、今や中小企業や個人も対象になる可能性が非常に高くなっている。デジタルネイティブな子供たちでさえ、ターゲットになりうる」と語った。
第3点は、逆説的にも聞こえるが、「基本的な対策が依然として極めて有効であること」だ。前田氏は「サイバー攻撃は高度化・複雑化しているが、対策の基本的な部分の有効性は全く変わっていない」と断言した。
具体的には、OSやソフトウェアのアップデートとパッチ適用を挙げ、「使用しているシステムがきちんと最新の状態になっているかを確認するだけでも非常に有効だ。特に最近は、以前と同じつもりで使っているサービスや機器であっても、インターネットに接続されて情報漏えいのリスクを生じている場合がある。例えば監視カメラでも、新しいサービスを経由してネットワークに接続されていれば、攻撃者にとって十分な標的になりうる」と説明。自分が利用する商品・サービスのネットワーク接続状況を定期的に見直し、提供者から公開されるパッチを適時に適用することの重要性を改めて訴えた。
また、フィッシングメールの見極めについても「日本語が不自然なフィッシングメールはいまだに存在しており、依然として有効な見分け方の一つだ」と述べた。
最後に前田氏は「サイバーインシデントが国境をまたぐ性質はますます強まっている。国家サイバー統括室としても、様々な国や地域の機関と連携してこの状況に対応していきたい」と締めくくった。
EUが示すデジタルアイデンティティという解決策

欧州連合駐日代表部デジタル経済政策担当公使参事官のピーター・ファテルニグ氏
ファテルニグ氏は、国際的なデータ流通とデジタルアイデンティティという2つの観点から発言した。
まず、国際的なデータ交換のフレームワークについて。「企業が国際的なデータマーケットに参加しようとしても、共通のフレームワークが存在しない。法的体制も政治体制も異なる中でルールを形成するのは容易ではない」と課題を整理した。EUでは「ガイアX」というイニシアティブを通じて多くのデータスペーステクノロジーに取り組んできたが、「技術的なスタンダードの確立と、実装面での枠組み整備が課題として残っている。日本とEUの間でも、共通点を見つけながら一緒に取り組みを進め始めている」と述べた。
続いてファテルニグ氏が解決策として提示したのが「デジタルアイデンティティ」だ。「EUではデジタルウォレットがすでに広く普及し始めており、この流れはまもなくさらに拡大する」と述べ、その重要性の根拠として欧州の調査結果を引用した。「調査によれば、欧州においてオンラインプラットフォームや取引を信頼するユーザーはわずか39%に留まる。信頼の形成には依然として大きなギャップがある。デジタルIDはその一つの解決策となる」と語った。
デジタルアイデンティティの活用価値については次のように説明した。「Booking.comのようなプラットフォームが認証を行い、何百万人ものユーザーとコミュニケーションを取る際に役立つ。デジタルIDが導入されれば標準化が可能になり、予約の受付においても、法的に検証された信頼性の高い情報が流通するようになる。ビジネスプロバイダーは誰が何を予約しているかを確認できる。データ収集が目的ではない。人々をハッピーにすることがビジネスであり、正しく信頼できるデータを全ての人に提供するプラットフォームが実現できる」と述べた。
さらに、「日本のデジタルIDとEUのデジタルIDは相互運用性を持つことも可能だ。より大きな枠組みで連携させることも十分に実現しうる」と述べ、日EU間のデジタルIDの互換性についても言及した。
「おもてなし」のデジタル化が生む唯一無二の価値

ブッキング・ドットコム日本・公共政策部統括の根岸大夢氏
ディスカッションでは、根岸氏の問いかけをきっかけに「安全対策」の意義を問い直す議論が展開された。
根岸氏は「日本のオンライン上の安心・安全は、単に守りの姿勢だけではなく、外国人旅行者から日本が選ばれる競争力の源泉にもなりうる」と問題提起し、具体的な啓発活動のあり方をウィルキング氏に問うた。
ウィルキング氏は「官民の協力がとても適している分野だ」と前置きした上で、銀行業界の事例を引き合いに出した。「オンラインバンキングが90年代後半に導入された際、銀行はサイバー犯罪のターゲットとなったが、取引の場所で教育を提供することで長年うまく対処してきた。旅行業界も同じことができるはずだ」と述べた。
さらに、日本に特有の大規模プラットフォームの活用も提案した。「LINEは日本で約9500万人のユーザーを持つ。9500万人を教育するチャンスがそこにある。どうやって不正を見抜くか、見抜いた後に何をするかを教育できる。官民が力を合わせてアイデアを共有し、消費者教育を高めていくべきだ」と語った。
情報共有とルール形成の観点については、「脅威が発生してから対応するのではなく、早期に情報を共有して被害の拡大を防ぐ仕組みが必要だ。業界全体での情報共有と啓発活動を通じて、旅行者および事業者の保護を推進していくことが求められる」とまとめた。
ファテルニグ氏は、セッションの終盤で日本の観光が持つ独自の価値についてこう述べた。「日本を旅行して感じたことは、他の国では真似できない体験があるということだ。物理的な、心に安らぎをもたらす体験はオンラインには存在しない。日本はそのユニークな体験をデジタルでも提供できるのではないか。予約や届けのすべてのステップで、それが可能だと思う。『おもてなし』という言葉が今日何度も使われたが、デジタルおもてなしというものもありうる。日本のおもてなしがデジタル化されれば、他には誰も真似できない価値が生まれる」と語った。
セッションの結論——安全はビジネスの根幹
根岸氏はセッションの最後に3点を総括した。
「第1に、安全は一社だけで達成できるものではない。個人、事業者、プラットフォーム、旅行者、政府が国際的な知見を共有することが重要だ。第2に、旅行のデジタル化が進む中で、オンライン上の安全と信頼は観光を含むビジネスの根幹になっている。第3に、安全・安心は単なる守りではなく、旅行者に選ばれて地域に利益が還元される、持続可能な観光の競争力となるものだ」と述べた。
さらに「AIやデジタル技術は旅行をより便利にする一方、旅行者・事業者・地域社会を守るためにも活用できる。しかし技術だけでは十分ではなく、人による判断、透明性、そして官民・業界団体の連携が非常に重要だ」と締めくくった。
セッションで確認・合意された主な事項は以下のとおりだ。
- サイバーセキュリティ対策において、官民および国際的な連携を強化していく方針
- オンライン上の安全を観光産業の競争力強化に直結する重要な基盤として位置づけること
- ソフトウェアのアップデートやパッチ適用といった基本的なセキュリティ対策を継続的に実施することの重要性
- デジタルアイデンティティの活用がオンライン取引の信頼性向上に寄与する有効なソリューションであること
- 業界全体での情報共有や啓発活動を通じた旅行者および事業者の保護推進

イベント概要——創業30周年の節目に開催
「Booking.com Innovation Summit Japan 2026: The Next Horizon——30年にわたるつながり、イノベーション、そして発見」は、世界最大級のデジタルトラベルプラットフォームであるBooking.comが創業30周年の節目に開催したもの。株式会社三菱総合研究所(MRI)との共催で、2026年9月15日午後3時から午後6時30分まで、東京・高輪ゲートウェイコンベンションセンター(東京都港区高輪2丁目21-2 THE LINKPILLAR 1 SOUTH 6F)で実施された。
当日のプログラムはオープニングから始まり、基調講演「Booking.comのみる日本の観光の可能性」(Matthias Schmid・宿泊事業担当シニア・バイス・プレジデント)、4つの深掘りセッション、Fireside Chat、クロージングで構成。午後6時からは懇親会も行われた。
Fireside Chat「30年の歴史と旅行・テクノロジーの未来」にはJames Waters・シニア・バイス・プレジデント兼最高事業責任者と、Nuno Guerreiro・北・南アジア地区リージョナルディレクターが登壇。Deep Dive Session 1「AIと旅の関係性」ではMatthias Schmid氏と三菱総合研究所研究理事・AI技術顧問の比屋根一雄氏が、Deep Dive Session 2「地域経済の成長——AIのもたらす次なる地域観光とは」ではLuiz Rodrigues・Booking.com日本代表と三菱総合研究所・宮崎俊哉氏、地域観光プロデューサーの福田直子氏、南禅寺八千代代表取締役兼オーナーの中西敏之氏が登壇した。Deep Dive Session 3「フィンテックによる地域観光の活性化」ではRajiv Appana・決済担当バイス・プレジデントと、SQUEEZE Inc.執行役員CMOの渡部謙太郎氏が議論を展開した。
Booking.comは「すべての人に、世界をより身近に体験できる自由を」を企業理念に、多種多様な宿泊施設や旅行体験、フライト、レンタカーを提供する世界最大級のデジタ ルトラベルプラットフォーマーだ。今回のサミットは、訪日需要の回復と成長が続く一方で、地域へのインバウンド旅行者増、観光人材の確保、デジタル活用、持続可能な地域経済の構築など多くの課題が広がる日本の観光業界に向けて、旅行の未来と日本観光の可能性を官民・産学が共創する場として位置付けられた。
【kankokeizai.com 編集長 江口英一】





