このコラムは過去にさまざまな私見を記載してきたが、今後は、現在、私がSNSで発信し出版を計画している私の父小原嘉登次の物語【明治の気骨】を連載していきたい。私的な物語ではあるが読者の皆さまのお許しを賜りたい。
ある日、嘉登次は健史を自分の応接室に呼んで言った。「健史、店(=和多屋別荘)の営業も、なかなか好調になっとるな!」「ハイ、新幹線博多開業の効果がもろに出ていますね。今後の予約も堅調です」「そうか、それは何よりばってん、お前の弟の和多屋本館の高嘉たちのために新しい旅館ば造ろうかと思うとるが、お前は、どう思うか?」。
そう聞かれて、健史は平素より常々、兄の晰や大治から言われている言葉を思い出し身が引き締まった。 それは”嘉登次会長の大変な苦労と努力のおかげで今の自分たちは、兄弟それぞれの旅館ホテルを経営できる立場にある。会長の言われることに絶対逆らってはいけない! 会長が白と言えば白、黒と言えば黒である”と。であるから、健史の口から出た言葉は、「はい、会長のこれまでのご苦労で私たちは、今の生活もできていて、おかげさまで和多屋別荘の副社長もさせていただいています。ですから、会長が”新しい旅館”を造ると言われれば、そのようにされた方が良いと思います」。
嘉登次は、健史を副社長にさせて以来、”この息子は、何かと理屈をこねるので困ったものだ”と思っていて、その屁理屈にカミナリを何度か落とし、かつ、兄たちからも説教をさせた効果があったと感じ言った。
「そうか、お前も賛成してくれるか?」「はい、当たり前のことと思います」。会長の嘉登次が意を決して話す場合には、息子たちの返事は常に”YES”しかないのであって、万一、”NO!”とでも言おうものなら、顔色を変え眦(まなじり)を決した嘉登次から怒声を浴びるのであり、それが何回か繰り返されれば、本当の息子でも小原一族から追放されるのである。
これは厳然とした事実であり、息子の1人は、嘉登次とあらそいの末に嘉登次の経営する事業グループから追い出された。それが、一つの事例になり、まさに掟(おきて)のようなものになっていた。
嘉登次は、なぜ、そのような家族と家系を形成したのか? それは、多分、戦後の動乱期に裸一貫同然で材木の切り出しから身を興し、嘉登次を中心に血の結束をもって、嬉野を主に小原企業グループを展開し、また、県議として、県議会議長としての地位を不動のものとするために必要な唯一最大の要素であったのであろう。
嘉登次が予想していた以上に健史は素直に応じている。嘉登次は言った。「そうか、それではお前も協力してくれるか?」。健史は素直な気持ちで言った。「はい、良かったら私にも何か手伝わせてください。そして、会長、和多屋別荘自体も増改築をしたいと考え始めていたのですが」。「そうか、和多屋別荘も順調に売り上げも伸びているし、そうだな、それもよかね!」。嘉登次は破顔一笑、満面の笑みを浮かべて、「しかし、和多屋別荘の前に、和多屋本館の新館ば造るぞ、よかな!」。
「はい、私も勉強のために、何でも協力をさせてください」「分かった」。親子であっても、健史は”NO!”とは言えず、素直に従うしかなかったのだが、嘉登次にとっては、これは駆け引きであって、健史から「協力します!」と言う明確な<言質>をとったことになる。
この一言が、この数日後に自分を窮地に立たせることになるとは、健史は夢想だにしなかった。
(元全旅連会長)




