大正ロマンの原点を育んだ生家の里
岡山を旅して後楽園前の赤レンガの夢二郷土美術館で、久し振りに作品を目にした。生まれ故郷の邑久(おく)をふと見たくなって赤穂線に乗った。25分で「待てど暮らせど来ぬ人を 宵待草のやるせなさ」の詩碑のある駅に降り立った。
生家へはバスで10分足らず。道の向こうに赤い屋根と白壁の洋風建物の少年山荘が見えて、その左手に竹林を背にして土塀に囲まれた茅葺きと瓦葺きの2棟の平屋建ての「夢二生家」が建っていた。
生家は造り酒屋で、夢二には夭逝の兄と6歳上の姉がいた。ひょうきんでお調子者の小学生だったが、幼い頃から画才を発揮した。
子供部屋の連子窓からはかつて実り豊かな田園風景が見えた。思慕する6歳年上の美しい黒髪の姉・松香の嫁ぐ姿を涙で見送ったのもこの窓からだった。
「泣く時はよき母がありき 遊ぶ時はよき姉ありき 七つのころよ」と碑にあるように情感豊かに育った。
よく遊んだ裏山に竹久家の墓や夢二の墓があると聞いて、夢二遊歩道と呼ぶ竹藪や雑木林の小径を5~6分上った。林に囲まれた墓地の中に立つ竹久家先祖代々の墓には「竹久亭夢生楽居士」本名「茂次郎」とあった。廃校になったが母校の明徳小学校跡や菩提寺の安楽院も近くあった。
夢二は神戸中学を家の事情で中退し、16歳の時、一家で九州・八幡に移住したあと17歳で家出、上京。早稲田実業に通うなど変転の多い人生が始まる。
自ら設計して晩年を過ごした東京の自宅兼アトリエを心地に復元した少年山荘で年譜や写真を見て、美人画や抒情詩で明治から昭和にかけて一世を風靡した夢二の足跡をたどった。
たまき、彦乃、お葉ら多くの女性との恋愛遍歴や各地に旅を重ねながら名声を高めた華々しい生涯だった。
だが人生最期の50歳は、八ヶ岳麓の結核療養所で誰一人の見舞い客もなく、あまりにも寂しく息を引き取ったという。
(旅行作家)
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